最上記外伝 第1部 目次

この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。ご一緒に想像を膨らませながらお楽しみください。 残日録 日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ 三屋清左衛門出自のこと 下敷き「長門守一件」のこと 右馬允 江戸幕府主導の偽作のこと 50を超す松…

39.1万2千余石の代官のこと(第1部了)

東海道 今回の主要地点 京から江戸に向かうには、近江の草津と伊勢の鈴鹿を結ぶ土山越えで伊勢湾に臨み、舟で常滑か熱田に渡る。しかし草津は三成の佐和山城と指呼の間にあり、水口城の長塚正家が控えている。正家は五奉行の一で中間派だが、秀頼一辺倒とい…

38.江戸参集は7月2日のこと

手輿:『法然上人絵伝』から 天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの足掛け12年、それまでの歴史上、もちろん日本に限ってだが、家康は最も長い距離を移動した人物ではなかったか。 主な移動を拾うと次のようになる。 天正18年(1590…

37.徳川どのが天下人のこと

二条城:洛中洛外屏風(林原本) 三成の奉行解任、佐和山城蟄居に関連して、 ――なぜ三成は大坂にいたのか。 という素朴な疑問がある。 秀吉の子飼い7将がそろって大坂にいたのは、朝鮮戦役からの帰着を豊臣秀頼と後見人前田利家に報告するためだった。彼ら…

36.三成の佐和山城蟄居のこと

佐和山城(想像図):ネットサイト「近江戦国歴史ロマン」から 念誓が考えた土呂陣屋襲撃計画は、 ――大義も名分もござらぬ。 という槇六郎左衛門の一言で白紙に戻った。 なるほど、額田屋の旧右馬允家家中が蜂起すれば同調者が出るに違いない。お屋形さま(…

35.自重論と強行突破策のこと

三河一向一揆:月岡芳年 太閤が死んだ、と伊豆検校圓一から知らされて念誓は魂消たものの、なにせ遠く離れた桃山で起こったことである。実感はない。 道者、行者が伝えてくるのは、 ――何ごともなし。 で桃山の城下にも洛中にも、目立った動きはないようだっ…

34.阿弥陀ヶ峰に埋葬のこと

豊国廟:阿弥陀ヶ峰(京都市) Wikipediaから 豊臣秀吉が齢62をもって息を引き取ったのは慶長3年(1598)8月18日(新暦9月18日)だった。秀吉というと大坂城のイメージが強いのだが、それは後継に指名した三男秀頼のために築いたのであって、亡…

33.琵琶法師「当道座」のこと

山田検校顕彰碑(藤沢市江ノ島) 木枯らしが吹き始めたころ、果たして川井惣五郎と熊田新五郎は圓都の返書を持ち帰った。行きに4日、戸倉の城下で返書を待つのに1日、帰りに4日、都合8泊9日かかっている。東海三国を通る東海道は度重なる軍兵輜重の往来…

32.伊豆検校土屋圓都のこと

伝井伊直虎着用の幅広袖付胴丸:井伊美術館 文禄5年(1596、同年十月二十七日改元し「慶長」)から慶長3年(1598)にかけて、風魔党と関東周辺の忍者集団との間に起きた軋轢は「慶長騒擾」と称される。 風魔党と争ったのは越後の伏齅(ふせかぎ)…

31.久々の寄騎衆評定のこと

服部半蔵正成:Wikipediaから 話が前後しているので、筆者のメモとして書いておくのだが、年次は慶長2年(1597)、念誓64歳の10月である。旧暦の10月は新暦の11月中旬から12月にかけての時期に当たる。 念誓宅もしくは額田屋には、三河に残留…

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