第1部 目 次

残日録 日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ 三屋清左衛門出自のこと 下敷き「長門守一件」のこと 右馬允 江戸幕府主導の偽作のこと 50を超す松平家のこと 代官の俸禄と勘定方のこと 信光に傚った弥三郎のこと 家督めぐる下克上のこと 大義名分と義理仁義のこと 念 …

第2部 目 次

この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。ご一緒に想像を膨らませながらお楽しみください。 清三郎 関ヶ原合戦のあとのこと 伏見と駿府の幕府のこと 泣き虫の寝小便垂れのこと 代官の子は代官のこと 市右衛門と長四郎のこと 長澤…

57.江戸に幕府を集約のこと

久能山から眺めた駿河湾 この史譚の第一部は松平念誓(清蔵親宅)の死去で終わった。今回は徳川初代将軍家康の死を扱うが、節目ではあっても部の変わり目にはならない。物語のうえで中心となるのは、家康より松平正綱になる。 元和2年(1616)4月17…

56.朝倉才三郎の跡式のこと

駿河臺:不二三十六景(廣重画) 駿府城を訪ねる前、圓一は家康付きの侍医片山宗哲から、「腹中の岩」について聞かされていた。ともに法印でもあり、宗哲にすれば惣検校と誼を通じておいて損はない。 ときおり鋭い痛みが走るのを大御所は ――真田の祟りじゃ。…

55.最後の懸案は大衆統治のこと

早雲寺:箱根町湯本(箱根ナビから) このとき家康が駿府城本丸の書院で惣検校圓一を迎えたのは、今川の質だったときの幼馴染と思い出話をするだけが目的だったわけではない。その一言が天下を左右することになる家康であればこそ、配下の本多正純や松平正綱…

54.大乗につきお目こぼしのこと

江戸時代の医師は法体が多かった 元和元年(1615)に時を戻す。 家康が駿府に戻ったのは8月の末である。 そのあとを追うように、当道座職の総検校伊豆圓一(土屋圓都)の一行が駿府にやってきた。総検校は10万石(一説には15万石とも)の大名と同格…

53.高井郡2万石の代官のこと

朝熊岳金剛證寺:三重観光開発のホームページから 土呂松平家から代官の職を引き継いだ念誓の弟親成(浄旦)の家は、隠居後に構えた館の場所にちなんで御馬家と称された。その地は右馬允家第2代の甚右衛門(親常)が居城(住居兼砦)としたところであって、…

52.清左衛門襲名と祝言のこと

家康が掲げた「欣求浄土」の旗:釘浦山大澤寺のホームページから 大阪の陣のあとのことである。 豊臣家(本稿の仮説では第1次吉利支丹一揆)を滅ぼして、自ら陣旗に掲げた「厭離穢土欣求浄土」と「元和」を達成したことに安心したわけではなかったろうけれ…

51.真田の姫の乱妨取りのこと

葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱:東慶寺(北鎌倉)蔵/重要文化財 大坂落城の余話である。 秀頼が自刃した5月8日の夕刻以後も、散発的な戦闘は続いていた。 徳川方の記録は ――豊臣の残党 というのだが、城主が自刃し多くの将が討ち死にしても、なおゲリラ戦が行われた…

50.秀頼の落人伝説のこと

真田の抜け穴:三光神社(大阪・玉造本町宰相山公園) 小田原城が降伏したとき、秀吉は家康以下の諸将を率いて城内に入って勝鬨をあげ、天守から城下を睥睨した。軍兵の解散と武装解除、事実上の当主北條氏政、全軍の指揮官氏照の自裁、城主氏直の退去という…

49.宗教戦争第2幕のこと

フランシスコ・ザビエルの肖像;神戸市立美術館(重要文化財) 安土桃山、伏見・駿河幕府のころの吉利支丹はどれほどの力を持っていたか、われわれはあまり知らない。教科書日本史は鉄砲伝来、南蛮貿易、イエズス会、吉利支丹弾圧、鎖国・出島という筋立てで…

48.吉利支丹と国富流出のこと

後藤分銅:江戸時代に両替商が用いた(Wikipediaから) 大阪落城、豊臣家滅亡を確認した家康は、松平忠明を大阪城代に任じて京の二条城に入った。忠明は前年の講和に基づいて大坂城の濠を埋め立てる作業を指揮した立役者である。その働きがなければ、豊臣家…

47.二条城での対面のこと

炎上する大坂城 これから先の話に通底することを書いておきたい。第1部から数えて47回目になってやっと、というのは遅きに失する感がないでもない。それはその通りだが、改むるに憚ることなかれ、である。 洛中から赤く輝く空が望まれるほど大坂城が激し…

46.大坂戦役の赤備えのこと

真田の赤備え:NHK大河ドラマ『真田丸』 大坂城の豊臣家が滅びたのは、慶長20年(1615)の5月8日である。グレゴリオ暦に直すと6月4日に当たる。 このとき市右衛門は天王寺の家康本陣にいた。わずか21歳、駿府城勤番の旗本に加えられて半年を過ぎ…

45.長澤松平家の騒動のこと

皆川広照の墓:栃木市金剛寺(「武将の銅像と墓参り」から) 松平清三郎は数え14歳の慶長13年(1608)に元服し、通り名を市右衛門と改め、諱は「親正」と定まった。一方の長四郎が元服したのは16歳の慶長16年(1611)で、このときの諱は「正…

44.市右衛門と長四郎のこと

日光の杉並木:travel.jp 所伝によると、大河内金兵衛(久綱)の長男長四郎が ――代官ではいやじゃ。 と言ったのは慶長6年(1601)のことだったという。 室町に幕府があったころ、大河内の家は三河吉良氏の被官で、そもそもは遠江国曳馬荘(浜松市)の代…

43.代官の子は代官のこと

松平忠輝像:貞松院(長野県諏訪市) 土呂陣屋を預かっていた念誓の長男清蔵(親重)は、実父の死を境に通り名を「清左衛門」に改めた。「清左衛門」は念誓も出家する直前、岡崎三郎(信康)の宿老に加えられたときに名乗っていたことがある。右馬允家当主の…

42.泣き虫の寝小便垂れのこと

剣術と槍術:天真正伝香取神刀流のYouTubeから 話を念誓の生前に戻す。 清三郎少年の家は公家でもなければ神官でもない。元は武家だが、現在は百姓である。しかし父親は土呂三八市評定衆の筆頭格であり、近在25村1万2千余石を差配する代官でもある。 か…

41.伏見と駿府の幕府のこと

安土桃山様式の装飾垂木:静岡浅間神社 前回に続いてで恐縮だが、教科書日本史は、慶長8年(1603)の2月に徳川家康が征夷大将軍に任じられたことを以って ――江戸に幕府が開かれました。 と書く。 日本史の時代区分は、世相状況を表す「戦国」時代を別…

40.関ヶ原合戦のあとのこと

関ヶ原合戦図屏風:関ケ原町歴史民俗資料館 関ヶ原合戦のあとのことに触れておきたい。 教科書日本史では ――関ヶ原の合戦で西軍が負けて、石田三成は三条河原で処刑されました。 ないし、 ――徳川家康が天下を握り、豊臣家は一大名の地位に陥落しました。 で…

 最上記外伝 第1部 目次

この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。ご一緒に想像を膨らませながらお楽しみください。 残日録 日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ 三屋清左衛門出自のこと 下敷き「長門守一件」のこと 右馬允 江戸幕府主導の偽作のこと 50を超す松…

39.1万2千余石の代官のこと(第1部了)

東海道 今回の主要地点 京から江戸に向かうには、近江の草津と伊勢の鈴鹿を結ぶ土山越えで伊勢湾に臨み、舟で常滑か熱田に渡る。しかし草津は三成の佐和山城と指呼の間にあり、水口城の長塚正家が控えている。正家は五奉行の一で中間派だが、秀頼一辺倒とい…

38.江戸参集は7月2日のこと

手輿:『法然上人絵伝』から 天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの足掛け12年、それまでの歴史上、もちろん日本に限ってだが、家康は最も長い距離を移動した人物ではなかったか。 主な移動を拾うと次のようになる。 天正18年(1590…

37.徳川どのが天下人のこと

二条城:洛中洛外屏風(林原本) 三成の奉行解任、佐和山城蟄居に関連して、 ――なぜ三成は大坂にいたのか。 という素朴な疑問がある。 秀吉の子飼い7将がそろって大坂にいたのは、朝鮮戦役からの帰着を豊臣秀頼と後見人前田利家に報告するためだった。彼ら…

36.三成の佐和山城蟄居のこと

佐和山城(想像図):ネットサイト「近江戦国歴史ロマン」から 念誓が考えた土呂陣屋襲撃計画は、 ――大義も名分もござらぬ。 という槇六郎左衛門の一言で白紙に戻った。 なるほど、額田屋の旧右馬允家家中が蜂起すれば同調者が出るに違いない。お屋形さま(…

35.自重論と強行突破策のこと

三河一向一揆:月岡芳年 太閤が死んだ、と伊豆検校圓一から知らされて念誓は魂消たものの、なにせ遠く離れた桃山で起こったことである。実感はない。 道者、行者が伝えてくるのは、 ――何ごともなし。 で桃山の城下にも洛中にも、目立った動きはないようだっ…

34.阿弥陀ヶ峰に埋葬のこと

豊国廟:阿弥陀ヶ峰(京都市) Wikipediaから 豊臣秀吉が齢62をもって息を引き取ったのは慶長3年(1598)8月18日(新暦9月18日)だった。秀吉というと大坂城のイメージが強いのだが、それは後継に指名した三男秀頼のために築いたのであって、亡…

33.琵琶法師「当道座」のこと

山田検校顕彰碑(藤沢市江ノ島) 木枯らしが吹き始めたころ、果たして川井惣五郎と熊田新五郎は圓都の返書を持ち帰った。行きに4日、戸倉の城下で返書を待つのに1日、帰りに4日、都合8泊9日かかっている。東海三国を通る東海道は度重なる軍兵輜重の往来…

32.伊豆検校土屋圓都のこと

伝井伊直虎着用の幅広袖付胴丸:井伊美術館 文禄5年(1596、同年十月二十七日改元し「慶長」)から慶長3年(1598)にかけて、風魔党と関東周辺の忍者集団との間に起きた軋轢は「慶長騒擾」と称される。 風魔党と争ったのは越後の伏齅(ふせかぎ)…

31.久々の寄騎衆評定のこと

服部半蔵正成:Wikipediaから 話が前後しているので、筆者のメモとして書いておくのだが、年次は慶長2年(1597)、念誓64歳の10月である。旧暦の10月は新暦の11月中旬から12月にかけての時期に当たる。 念誓宅もしくは額田屋には、三河に残留…

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