日本IT史伝

コンピュータの成り立ちや情報化/デジタル化の歴史秘話を綴ります

1955年 日興証券がUNIVAC機を導入したいきさつ

この節に登場する人物

 中沢重雄 峰山二郎 遠山元一 井上 敏 大野伴睦 伊藤正之

f:id:itkisyakai:20050607174146j:plain

UNIVAC120は真空管120本、同60は60本を使っていた。写真は2005年「日本ユニバック50年記念式典」に展示されたUNIVAC120(野村證券所蔵)

1.水面下で始まっていた地殻変動


 1970年代に入って、日本IBMは国内の大型汎用コンピュータ市場で断然の強者となった。しかしそれまでの強者は日本ユニバックだった。両者の立場が逆転する兆しは1960年代の後半に現われていた。

 その端緒としてよく引き合いに出されるのは東京オリンピックにおけるオンライン・システムだが、筆者はやや異なる見解を持っている。

 その時点で日本ユニバックは労働省職業安定局、国鉄近畿日本鉄道のオンライン・システムを完成させ、あるいはその開発に忙殺されていた。ために、わずか一時のためのシステムに総力を挙げることができなかった。 一方、日本IBMは国のプロジェクトを請けたこともなければオンライン・システムの実績もなかった。

 日本オリンピック委員会から打診があったとき、最初、彼らは断ろうと考え、その言い訳に知恵を絞ったが、アメリカ本社がゴーサインを出した。 アメリカ本社が取り組んでいたオンライン・システムの技術が導入でき、支援を受けることができることが確認できたので、遂に請けた。

 そのためにこの会社は精鋭300人の専任部隊を投入し、結果として無事に動いた。このことが、この会社に対する見方を変えたのは事実だったが、実は水面下でもっと大きな地殻変動が始まっていた。

 語るのは日興証券で初代の電算部長を務めた中沢重雄である。

 1950年3月、一橋大学経済学部を出て絹貿易商社・堀越商会に入るはずだったところ、にわかに内定取消しを受けた。一方で内定を得ていた日興証券に対して入社辞退を伝えていたが、背に腹は代えられなかった。

 同じ一橋出身で考査課の課長だった峰山二郎に相談すると、翌日人事課から呼び出しが来た。

 ――葉書一枚で内定を辞退しておきながら何だ。

 まず小言があった。 中沢は返す言葉もなかった。

 ――内定を復活させるわけにはいかない。

 やはり……、と思ったとき、相手が言った。

 ――ただ、再募集をすると聞いている。受けてみたらどうかね。

 中沢一人を採用するために、再募集の告知までした。

 入社早々、証券業界の損益分岐点についてレポートをまとめよ、という指示を受けた。

 ソロバンの珠をはじくこと2か月にして、「1日当たりの出来高60万株が損益分岐の目安であろう」という結論を得た。

 報告書が上司を経て社長・遠山元一に届けられ、それを遠山が日本証券業協会連合会会長として講演や会見に使った。

 朝鮮半島に勃発した戦争で日本の景気が上昇した。1日の出来高は100万株を超え、証券業界は追い風に乗った。2億円の資本金に対して10億円の累積赤字があった日興証券はたちまち黒字に転じ、営業員が膨張した。

 アメリカ証券業界の事情に詳しかった遠山は、このとき営業状況の計数的把握を指向していて、中沢に

 ――各店舗の状況を指標化せよ。

 と命じた。

 「当時、日興証券は16の店舗がありましてね。その成績を指標化しろ、っていうんで、営業にかかわるいろんな要素を調べて、それぞれを5段階で評価する方法を考え出しました。何となく、じゃまずいので、ソロバン部隊とタイガー計算器を用意して、毎日、パチパチ、チーンとやりましたよ」

 このとき、

 ――計算機があれば、どんなに楽だろう。

 と思った。

 「前後して考査課から管理部門が分離し、この管理課と財務課による業務研究会が発足しました。吉澤会計機の井上さんが熱心に計算機を売り込みに来られました。当時はコンピュータとか電子計算機という呼び方がなくて、タービュレータと呼んでましたね」

2.要員7人、パンチャー23人でスタートした

 「井上さん」とは井上敏のことである。

 のち日本ユニバックに移り取締役。証券・金融部門の営業を統括し、将来を嘱望されたが1969年に病を得て引退、1970年に没した。

 1954年のこと、研究会は「電子計算機を導入すべきである」という報告をまとめた。

 むろん、井上からUNIVAC120/60の情報がもたらされていた。

 「機種を検討するといっても、国産機はまだ開発途上でしたから、UNIVACかIBMか、その二者択一しかない。こっちは計算機の技術的なことは分からないので、結局はアメリカの証券業界や国内での評価を目安にするほかないわけです。この当時、計算機を入れていたのは保険会社でしたから、お願いして見せてもらったり、話を聞かせてもらいました」

 第一生命や日本生命IBM社のPCS(パンチカード・システム)の古いユーザーだった。ところが話を聞いているうち、自分たちが検討しているのは真空管式の電子計算機で、単純な比較ができない、ということが分かってきた。

 なにせ日興証券はパンチカード・システムの経験なしに、いきなり電子計算機を入れるわけだった。大型機のUNIVAC120を入れるほど処理量もない。とりあえずその半分の性能の同60で行こう、という話がまとまった。

 専務に昇格していた峰山二郎に稟議が上がり、峰山が即決した。

 「UNIVAC60一式の購入価格は1億5300万円でした。日本証券金融野村證券東京証券取引所などがUNIVAC120の購入を決定していたことは全く知りませんでした。それよりも何よりも電子計算機を受け入れる準備をしなければならない。ドル枠の獲得はトップに任せて、わたしたちは要員を集め、訓練しなければならなかった」

 外国から製品を購入するとき、通産省の了解を得て大蔵省からドルの割当をもらわなければならなかったことは、これまでもしばしば書いた。日興証券は海外投資機関の窓口だった外国部から遠山を動かし、遠山が大野伴睦に話をした。一方、中沢らは社内から電算処理要員として“七人の侍”を引き抜き、それにパンチャー23人を加えて受け入れ態勢を作った。

 「吉澤会計機が全面的に協力してくれました。要員の教育、パンチャーの養成、ワイヤリングなどほとんどを引き受けてもらい、やっとUNIVAC60を入れても大丈夫、というまでになるには、丸1年かかりました」

 UNIVAC60が入ったのは1955年の秋である。東京証券取引所野村證券より半年遅かった。

 設置されたのは日本橋兜町に新築なったばかりの東京営業部のビルで、事前に吉澤会計機から電圧や空調設備についてアドバイスがあったため、混乱は起こらなかった。またコンピュータで処理するために取引コードなどを定めてあったので、これも問題はなかった。

 「ところが、計算結果が間違ってばかりで、営業の現場からクレームの山でしてね」

 実際、プログラムのミスということもあった。それを修正しても間違いが出た。

 ――そんなバカな。

 調べると、マシンが正確にパンチカードを読み取っていないことが分かった。

 湿気で紙が歪んだり、たまたま外から運ぶとき雨滴がついただけで読み取り精度が下がった。パンチは正しくてもマシンが読み込んだデータが間違っているのだから、結果が合わないのは当然だった。

 「たぶん、初期の電子計算機のユーザーはどこでも同じトラブルを抱えていたと思います。プログラムもOK、計算機もちゃんと動いていても、雨つぶ一つですべてがパーになった時代です」

 UNIVAC60による計算処理はその後もミスが連続した。

 何が悪いのか、原因が分からなかった。運用を始めて2か月で中沢らは行き詰った。 このまま電子計算機を運用し続けると、営業の現場がますます混乱する。ひいては競合他社に対して営業力の弱体化を招きかねない。

 社長・遠山の英断で入れたUNIVAC60だったが、専務の峰山が意を決した。

 ――元に戻せ。

 峰山は言った。

3.1968年、全支店の機械化でIBM機に

 戻せ、とは手計算に、ということである。

 1億5300万円もかけて入れたマシンはそのままに、ソロバンとタイガー計算器に戻す作業が始まったのは1956年の1月4日からだった。

 「このときほど憂鬱な年末年始はありませんでしたね」

 と中沢は述懐する。

 丸1年かけて整えた電子計算機導入の体制を元に戻す。そうすることによって計算機の運用を根本から見直し、再スタートさせる、というのが峰山の判断だった。つい数か月前までソロバンとタイガー計算器でこなしていたのだから、何とかなるであろう。

 ――朝鮮戦争は、わが国にとっては天の恵みである。

 という言葉が産業界で交わされたように、証券業界にとっても天の恵みだった。

 いま、電子計算機を使いこなせるようになっておかなければ、日興は野村、山一、大和の3社に置いてきぼりを食ってしまう。一時的に計算機を止めても、将来に備えるべきである、という。

 峰山が中沢に与えた猶予期間は1週間だった。

 ――1週間のうちにすべての業務を元通りに戻せ。

 「徹夜の連続でした。2時間か3時間の睡眠が取れればいいほうで、会社に泊まり込んで作業を指示しました。あとで聞いたら、元に戻す作業に300人が動員されたそうです。最後のほうになると体力がなくなってフラフラしてました」

 UNIVAC機を運用しつつ手計算に戻し、かつ日常業務をスムーズに動かさなければならない。それが済むと、中沢は総勢約50人の業務部を指揮して、コンピュータの新しい運用規定、作業標準の策定に取り掛かった。

 慶応大学工学部出の新入社員として、伊藤正之(のち日本タイムシェアを創業)が業務部に配属されたのはそういうときだった。 電子計算機を使いこなすために電気工学が分かる要員が必要だった。競争率20倍の難関を突破してきた新人に中沢らは大いに期待した。

 「わたしが入ったとき、計算機はリスタートした直後でした。入社した初日から夜勤だったんです」

 伊藤が当時を思い出しながら語る。

 夜勤を済ませたあと、新入社員の講習を受けた。

 「いちばん後ろの席に座って寝てましたけど、注意されることはありませんでした。最初から夜勤の連続でした。けれど、最新の電子計算機というものに触れるわけですし、自分でワイヤリングしたプログラムが実際の仕事に生かせるんですから、これはやりがいがあると思いました。とにかく仕事することが楽しかった」

 毎朝、UNIVAC60のカバーを開けて5000本の真空管をチェックするのが伊藤の日課になった。フィラメントが切れてからでは遅いので、毎日のチェックが重要だった。危なそうな真空管を早め早めに交換するのである。

 大学で電気工学を学んだ伊藤がコンピュータの安定稼動に道をつけた。

 そうこうするうち、全支店の機械化という話が持ち上がった。

 日本経済の成長とともに、株式取引の処理量が急増した。支店から伝票を人手で運んでからパンチしたのではとても間に合わない。

 中沢が話を引き継ぐ。

 「たしかこのころじゃなかったかな」

 何月何日とまで中沢の記憶は定かではないが、1964年のうちであったことは間違いない。支店にテレタイプを置き、契約約款の記載事項を現場で紙テープにパンチして、回線でデータを送るようにした。音響カプラによる50bps(bit par second)の低速データ伝送だったが、ともあれ簡易なオンライン・システムであるには違いなかった。

 「このとき富士通の交換機を使ったんです。それがのちのち発展してFACOMのコンピュータを採用することにつながっていきました」

 この言葉に従って調べると、1965年1月にFACOM323というプログラム制御による通信交換機を使った「テレックス電文送受信システム」が稼動している。

 富士通側の記録では「1964年の夏、東京・大手町支店に機器を設置し、以後半年近くをかけて調整を行った」ということが見えている。

 データ通信専用コンピュータの第1号ユーザーが日興証券だった。

 並行して営業部門の強化ということが命題になった。東京オリンピック後に訪れた不況が、間接部門を縮小する圧力となり、それまで社内に鬱積していた

 ――コンピュータは“金食い虫”ではないか。

 という声が表面化した。

 中沢が矢面に立った。 なるほどコンピュータは一銭も稼ぎ出さない。

 ――稼いでいるのは営業の現場である。業務部はわれわれが生んだ利益を食いつぶしている。

 だが実態は逆だった。

 業務部はUNIVAC機――このとき日興証券はUNIVAC60からUSSC(UNIVAC Solid State Computer) にレベルアップしていた――の余力を利用して、外部から計算処理やプログラム作りを受託していたのだった。そのことで得た収益は年間約3億円にも上った。1965年当時、日興証券の年間利益に相当する額だった。

 「支店の機械化推進」を名目に中沢が業務部から営業部に配転となったのは1966年だった。

 このころから日本IBMの営業部隊が証券会社とコンタクトを取るようになっていた。IBMシステム/360で大攻勢をかけた時期と一致している。

 折からUNIVAC機のレベルアップという問題が浮上した。海外の投資機関が1回で100万株単位のオーダーで買い注文を入れてくるようになり、USSCの能力不足がはっきりした。

 「同じUNIVAC機を使っていた計算センターなどに頼み込んで、コンピュータの空き時間を使わせてもらいました。その手配がたいへんだったことを覚えています」

 と前出の伊藤は言う。

 それからしばらく、UNIVAC機は日興証券のメインコンピュータとしての座を維持していた。

 「純粋に技術的な比較をすれば、この時点では両者互角だったと思います。その後、UNIVAC機の採用を決めた遠山さんが会長から退き、峰山さんが病気で専務を降り、中沢さんがコンピュータ部門から外れてしまった。加えて日本ユニバックの井上さんも一線を退いた。日興証券の経営陣はそのとき、日本IBMの組織力に魅力を感じたんでしょう」

 常務会がIBMシステム/360の採用を決めたのは1968年である。

 

UNIVAC120-コンピュータ博物館