日本IT史伝

コンピュータの成り立ちや情報化/デジタル化の歴史秘話を綴ります

1974年 富士銀行はなぜIBM機に乗り換えたか

この節に登場する人物

 島川聖明 石崎純夫 佐藤雄二朗 佐伯達男 松沢卓二

 ポールセン ド・フォレスト

 1

  富士銀行は1959年、都市銀行の先陣を切ってUSSCを導入した。以後、この銀行はUNIVAC機を主力に機械化を推進した。

 すなわち、1967年2月20日、東京・目黒支店で初めて普通預金のオンライン処理を実施し、銀行の大衆化に先鞭をつけた。普通預金オンライン・システムは1972年までに全支店をカバーし、72年8月にはTSS(TimeSharing Service)による経営統計照合システム「FOCUS」(Fuji Online Corporate Accounting System)を稼動させている。

 こうしたシステムを設計し、構築の指揮をとったのは島川聖明と石崎純夫である。

 普通預金オンライン・システムの構築を済ませたあと、島川と石崎が取り組んだのはオンライン・システムの大幅な拡張だった。

 67年2月稼動のシステムでキャッシュディスペンサー(CD)による現金引き下ろしが一部実現し、全国の支店への展開が始まっていた。貯金量は日本一、情報システムでもトップの座を確保したが、2人は

 ――本当の大衆化にはまだまだ。

 と考えていた。

 金融の大衆化とは、銀行業務のサービス化であり、サービス化とは小口取引の機械化と自動化を意味していた。それによって顧客と行員がカウンター越しに通帳や伝票、書類をやり取りする窓口業務が大幅に簡素化され、最終的に銀行の省力化と新しいサービスが可能になるのである。のちにこれが「第2次オンライン・システム」と呼ばれるようになる。

 2

「コンピュータ白書」は1974年度版で次のように解説した。

《銀行の第二次オンライン》

 第二次オンラインの内容は各行によって必ずしも同一ではないが、その特徴は次の4点であったといわれている。

 1.高性能マイクロ・プロセッサーを内蔵したターミナル・コントローラーによって、機能を強化された総合端末機器システムの制御を行い、営業店の省力化の推進。

 2.全店全科目のオンライン化、銀行間の預金受払、全銀システム、NCS、SWIFTへの接続。

 3.全顧客を対象とした顧客情報ファイル(CIF)をベースとして事務の合理化および顧客取引状況情報の提供。

 4.複数系統システムによってノーダウン・コントロール・システムの充実。

 このようにして第2次オンライン・システムは、センター・コストの軽減、顧客サービスの徹底ばかりでなく、行外システムと結ぶCDおよびATMによる無人化を促進させる結果となったが、高速専用回線のコスト負担、メイン・プロセッサーの巨大化を伴い、銀行の企業規模によっては単独のシステム作りが困難になった。

 ※SWIFT:Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication

 コンピュータ投資が利益との見合いで決定されていた時代である。

 というより、

 ――コンピュータによる機械化、自動化で省力化した分が利益に計上される。

 という考え方が一般的だった時代、都市銀行が競って取り組んだのは「コンピュータ化による新しい利益の創出」だった。

 都市銀行情報システム部門に所属する一部の人々にとって、コンピュータは計数処理の道具ではなかった。それは喩えていえば幕末維新における蒸気船であった。うまく乗りこなした者のみが、新しい天地に到達できるであろう。

 1972年8月に稼動した「FOCUS」はTSSモードのオンライン・システムだった。UNIVAC1108をセンターマシンとしていたが、預金の移動や決済など銀行の本業にかかわることはなかった。こんにちいうところの情報系システムである。

 ところが営業店店頭に置いた端末で公共料金を引き落としたりローンの返済や他行への振込みを行うとなると、まさに基幹業務である。第1次オンライン・システムで稼動したCDはテストケース的な意味合いが強く、利用者は大手企業の管理職以上ないし、一定額以上の年収がある人に制限することができた。

 自動引落し、自動振替、振込みといったサービスの利用を制限することは、顧客を差別的に扱うことになってしまうし、手作業の事務手続が残るのはかえって効率が悪い。 すべての営業店、すべての科目、すべての顧客を対象に、端末からリアルタイムでオンライン処理を行わなければならない。そのセンターマシンには、オンライン処理の速度だけでなく、データベースの検索・更新速度が求められた。

 3

 富士銀行がオンライン・システムを全面的に更新することを計画し始めたのは、石崎純夫によると、1972年の春、その詳細なプランを策定するに当たって、国内の主要なコンピュータ・メーカーにRFP(Request For Proposal)の提出を求めたのは同年6月である。

 メーカー各社は色めきたった。

 銀行業界のコンピュータ利用で常にトップを走り、その動向が他行に与える影響には絶大なものがあった。

 既存システムのセンターマシンを握っていたのは日本ユニバックである。金融営業本部長だった佐藤雄二朗(のち独立してアルゴ21を創業)が陣頭指揮に立った。

 佐藤の述懐。

 「それまでの実績からして、当方が有利だと思っていました。しかし富士銀行の要求は、当時のユニバックの技術をもってしてもかなり高度で、われわれは富士銀行本社4階の大会議室を”戦略室”として使わせてもらい、エンジニアや営業スタッフを缶詰にしてプロポーザルをまとめあげました」

 対抗した日本IBMの佐伯達男は言う。当時、システム開発室長。

 「開発室というのは富士銀行のために特設した部門でした。自分が統括責任者となって、選り抜きのエンジニアと営業スタッフを総勢30人ほど集め、富士銀行の本社近くのホテルに本部を置いて、全員がそこで1か月寝泊りしました。IBMの技術力をもってしても並大抵ではありませんでした」

 佐藤は言う。

 「われわれはEXEX8というOSをベースにUNIVAC494、同418―IIIをセンターマシンにすることを提案しました。富士銀行のシステム部門もおおむねその方向でした」

 佐伯は言う。

 「最初、ユニバックに流れていた空気が途中で変わっってきました。富士銀行は、これだけのシステムを作るには、現在世の中に発表されていない技術も検討すべきではないか、と考えるようになったのです」

 両社は数回に分けて、富士銀行のスタッフや経営陣をアメリカに案内した。

 それぞれのアメリカ本社、技術部門とのミーティング、工場の視察、先進的なオンライン・システムのユーザーを訪問した。アメリカの先進的なオンライン・システムのユーザーであっても、富士銀行の構想を聞くと目を丸くした。

 ――それはたいへんなことだ。

 多くの企業が肩をすくめた。それほどに難しい要求だった。しかし富士銀行は要求のレベルを下げなかった。技術的には必ず解決する、という信念に近い姿勢で臨んでいた。

 1973年に入っても、富士銀行は発注先をどちらにするか決めかねていた。社内でUNIVAC派とIBM派が拮抗していた。だけでなく、いやが上にも慎重にならざるを得なかった。将来を左右する重大事なのである。

 ――第三者機関に評価を依頼してはどうか。

 と言い出したのが誰だったか。おそらく島川・石崎の”知恵者”コンビであったろう。

 評価はアメリカのスタンフォード・リサーチ・インスティチュート(SRI)に委ねられた。スタンフォード大学を母体にした超1級の総合シンクタンク会社である。日本ユニバック、日本IBM両社にとっても異存のあるはずがない。

 4

 73年の秋、SRIは

 「IBM社がベターである」

 という結論を示した。

 その主な理由はオンライン化技術でも、コンピュータ本体の処理性能でも、システム構築力でもなく、記憶装置にあった。

 その記憶装置について語っておきたい。

 50年代から富士銀行が一貫してUNIVAC機を中心にシステムを構築してきたのは、UNIVAC機のほうがオンライン処理性能に優れていたためだった。だが70年代に入るとIBM機のオンライン処理性能は遜色ない水準に達していた。違ったのは外部記憶装置だった。

 UNIVAC機はドラム装置、IBM機は磁気ディスク装置である。

 電気的な仕組みによる記憶装置が最初に考案されたのは、1898年である。デンマークの電話技師だったポールセンが考案し、翌年、フランスのパリで開かれた万国博覧会に出品されて話題を集めた。「鋼線式録音機」と呼ばれる。

 「最近の発明のなかで最も興味あるもの」

 として賞賛されたが、実用化にはいたらなかった。

 この技術がアメリカに渡り、1921年のこと、ド・フォレストが考案した三極真空管によって増幅器が発明され、さらに1930年代のナチス・ドイツでリング型磁気ヘッドと微粉末塗布型テープが開発された。ここまでの段階では、ポールセンのアイデアは軍事的な探査や諜報を目的とする音声・電気信号の記録用として位置づけられていた。

 計算機の記憶装置としては、アタナソフ・ベリー・コンピュータ(ABC)に採用されたライデン瓶、ENIACに使われた水銀遅延管、ブラウン管などが開発され、次いで磁気ドラム装置が登場した。 磁気ドラム装置というのは、金属製の円筒の内側に磁性体を塗布し、その磁性体を帯電させて「0」と「1」を識別する仕掛けだった。

 ドラムを高速に回転させ、非接触型磁気ヘッドでデータを読み書きする。それはそれなりに機械的な精度を必要としたが、構造が簡単なので量産が可能だった。実際、日本電気はパラメトロン式の小型電気計算機「NEAC1201」の記憶装置として、ブリキの缶を使った磁気ドラム装置を製作している。

 記憶容量を増やそうとすると、磁気ドラム装置はドラムの直径を大きくしなければならない。磁性体が塗布されるのは円筒の内側だから、その面積は直径を倍にしても倍にしか増えない。ディスクの場合、直径を倍にすれば面積は4倍に増える。つまり、より大量のデータを記録することができる。

 ただし装置を安定的に動作させ、データの読み書きに信頼性を確保するには高度な精度が求められた。ディスクの駆動機構、磁気ヘッドの位置決め、ディスクと磁気ヘッドの間に生じる摩擦によるディスクの磨耗といった課題を一つ一つ解決していかなければならなかった。

 1956年、IBM社は磁気ディスク装置を自社の電子計算機「IBM305」「同650」に初めて実用化した。使用したディスクは直径が24インチ(約61cm)もあった。1インチ平方当たりの記録密度(Bit Per Square Inch:BPSI)は220、1枚当たりの記憶容量は100キロバイトで、完成した装置はこれを50枚組み込んだ大がかりなものだった。IBM社は、UNIVAC機が標準で装備する磁気ドラム装置と、大きさ、記憶容量で互角の外部記憶装置を独自に作り出すことができた。

 以後、記録密度を高度化する技術開発が絶え間なく続けられていった。

 61年に発売された磁気ディスク装置「IBM1405」の記録密度は900BPSI、62年発売の「同1301」は約3倍の2600BPSI、63年の「同1311」は5000BPSI、71年の「同3330」は8000BPSI、そして73年3月発表の「同3340」では、ついに3万3000BPSIに達したのだった。最初の実用化モデルから17年を経て、ディスクは金属からプラスチックに、その直径は24インチから3インチに小さくなっていた。かつ、磁気ドラム装置と比べアクセスタイムが格段に速い。

 これに対してUNIVAC機は磁気ディスク装置をサポートする計画がなかった。

 5

 SRIは

 ――次期オンライン・システムの中核技術はデータベースである。

 と判断した。

 プロセッサーの性能や通信回線のデータ伝送速度が向上するのは目に見えていた。となると、富士銀行が要求するデータベースのレスポンスを可能にするのはIBM社である。加えてIBM社はネットワーク・アーキテクチャー「SNA」を発表する準備を進めていた。

 これが決定打になった。

 とはいえ、富士銀行はSRIが出した結論を鵜呑みにしたわけではなかった。

 将来の技術を見ればIBM社が優位であるかもしれないが、現行のシステムはUNIVAC機で動いている。これを動かし続けながらIBM機に移行することができるだろうか。

 再び佐藤が言う。

 「形勢不利は否めなかった。しかし諦めるわけにはいかなかった。そこで最後の手段に出たんです」

 佐藤がとった最後の手段とは、当時副頭取だった松沢卓二への直訴である。

 ――UNIVAC機からIBM機に移行するのは、高速で飛んでいるジェット機からジェット機へ、すれ違いざまに乗客を乗り換えさせるようなものだ。

 と佐藤は訴えた。

 「そうか。そんなに危険なことなのか」

 松沢は言った。

 土壇場にきて佐藤に逆転のチャンスが生まれてきた。

 「まいった」

 頭を抱えたのは佐伯である。

 佐藤のたとえ話は、誇張はあったが事実だった。

 佐伯は困難さを認めつつ、

 ――2機の飛行機を同じ速度で飛ばし、空中で給油しながら乗客を乗り換えさせることができる。

 という離れ業を提案した。松沢にとって機械化・情報化に関する懐刀、島川・石崎のコンビが、皆が難しいと思うことに好んで挑戦する志向を持っていることに賭けたのだ。

 74年春、富士銀行は2年間にわたる闘いに終止符を打った。

 まず日本ユニバックの佐藤が呼ばれ、副頭取・松沢から慰労の言葉を受けた。慰労とは、つまり採用不可の意味である。

 面会を終えた佐藤を乗せたエレベーターのドアが開いたとき、目の前に佐伯が立っていた。

 「佐藤さんは目を真っ赤にして涙を浮かべていた。私は何も言えなかった」

 佐伯は頭を下げた。竜虎がすれ違った瞬間だった。

 富士銀行は74年8月、コンピュータ口座振替サービスを開始し、同年12月、IBMシステム/370―168による預金オンライン・システムを稼動させた。新システムに全面移行したのは77年1月である。

 SRIがIBMに軍配を上げた要因は、

 ――外部記憶装置とネットワーク・アーキテクチャーだった。

 とされる。

 しかしもう一つ語られざる理由があった。

 ――日本ユニバックはミスター・サトウ1人だが、日本IBMは組織で取り組んでいる。

 島川・石崎もまた、泣いて馬謖を斬ったのである。