日本IT史伝

コンピュータの成り立ちや情報化/デジタル化の歴史秘話を綴ります

日本IBMが日本市場でトップに立ったのは1970年代後半だった

この節に登場する人物

 稲垣早苗 椎名武雄 平松守彦 バーゲンシュトック 水品浩 岩田蒼明 ワトソン・ジュニア 牟田口道夫 中島敏 成瀬牧夫 松浦隼雄 伊藤和郎 坪谷次郎 上野正 濱口光彦 鎌田慶治 長瀬晋 三井信雄 向野圭蔵 松永正義 亀田寿一 森下啓造 細川泰秀 

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 日本市場で富士通に追撃され、IBM社が何度か地団駄を踏む思いをさせられたのは事実だった。大型汎用機「IBM3033」を出せばその性能を5倍も上回る「FACOM M―200」を、中型機「IBM4331」「同4341」には「FACOM M―170」以下の5機種を繰り出してくる。判官びいきもあって、ユーザーは富士通のマシンを好意的にとらえ、IBM社への風当たりが強くなった。

 とはいえ、アメリカではそのようなことは日常茶飯事なのだった。大型汎用機の世界こそライバルの数は限られていたが、制御用コンピュータ(ミニコン)の分野でディジタル・イクイップメント(DEC)社が台頭し、さすがのIBM社もその分野では王座を譲らざるを得なかった。ただIBM社は大型汎用機について、別の切り口から向こう10年を見通す戦略を立てていた。

 ネットワークである。

 1960年代に始まったオンライン・システムは、遠隔地に設置した2台の電子計算機を通信回線で結んで、片方向からデータを送信するだけの仕組みだった。もちろんそれはそれでたいへんに画期的なことだったが、利用が本格化してくると、コンピュータ間で相互にデータを送受信し、同時に遠隔地の大型コンピュータに格納されているアプリケーション・プログラムを端末から利用したいという要望が強まった。

 ――片方向のデータ送信ができるのであれば、双方向のデータ送受信が可能であろう。TSS(タイムシェアリング・システム)やRCS(リモート・コンピューティング・システム)ができるのだから、それをオンライン・システムに統合できるに違いない。

 多くのユーザーがそのように考えた。

 もちろんIBM社も同じことを考えた。

 スペリーランド社も同じことを考えていた。さらにもう1社、コンピュータ間通信を考えたメーカーがあった。 バロース社である。

 この会社は1968年、「コンピュータ・ネットワーク・アーキテクチャ」というこれまでにない概念を発表した。それは「ダイナネット(DynaNet)」と名付けられた。ところが通信プロトコルやネットワーク管理機能などが不十分だった。のち国際電信電話諮問委員会(CCITT)が1972年に規定したパケット交換方式のメッセージ・スイッチング標準プロトコル「X.25」を採用し、76年発表の「DSN」に発展する。

 IBM社は先を越されたが、それがかえって幸いした。

 IBMシステム/370シリーズの機能拡張の一環として、階段を上るようにネットワーク機能を実現していくことができたのだ。同社の技術陣はまず、OS「VM/370」の上で稼動する通信制御ソフト「VTAM」を開発し、次に通信制御装置「IBM3767」「同3770」「同3790」を製品化した。さらにネットワーク対応の情報表示装置「同3270」を作った。

 これらを一つのシステムとして発表したのは74年9月のことだった。それがシステムズ・ネットワーク・アーキテクチャ、すなわち「SNA」である。

 SNAは、60年代に行われていたオンライン・システムがセンターマシンのプロセッサーにその処理をすべて集中させていたのに対し、通信制御装置をセンターマシンの外側に接続することに特徴があった。演算処理と通信制御を分離することで、センターマシンの負荷が分散し、レスポンスが大幅に改善された。

 通信用プロセッサをFEP化したのである。

 実際、IBM社の通信制御装置には「NCP/VS」というOSが動いていた。また通信方式に全二重通信技術を採用した。1本の通信回線を上り下りの両方向で使う方式で、例えば通信プロトコルを確立する手順が簡素化され、処理速度が増した。

 1974年に発表された当時のSNAは、1台のIBMシステム/370をセンターマシンとする単純なツリー構造だった。これが4年後の78年になると、複数のセンターマシンを通信制御装置を介して接続する複数システム・ネットワークに発展した。

 IBM社はこれを「新SNA」としてリリースし、他メーカーが一斉に追随した。スペリーランド社の「DCA」、富士通・日立の「MSNA」、日本電気東芝の「ANSA」「DINA」がそれに当たる。こうしてSNAはこんにちのコンピュータ・ネットワーク・アーキテクチャの原型となった。

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 こうしたなかで日本IBMは新しい時代を迎えていた。

 1975年2月、稲垣早苗が代表取締役会長に退き、副社長だった椎名武雄が第5代社長に就任することになった。稲垣は52年に水品浩からバトンタッチを受け、IBMブランドのコンピュータや周辺機器の国産化を実現し、特許使用料の支払いをめぐってアメリカ本社とやり合いつつ、60年当時に常務だった椎名をして通産省電子工業課の平松守彦とアメリカ本社法務担当副社長・バーゲンシュトックとの仲介を担当させた。

 日本政府による「外資」への差別待遇の間隙を縫って「日本IBMの日本化」を推進した。東京・六本木の本社、神奈川県藤沢、岐阜県野洲の工場、東京・町田の総合グラウンドなど、こんにちの日本IBMの資産は稲垣時代に形成されている。 新SNAが発表された78年の4月、水品浩が死去した。

 1925年、森村商事のニューヨーク駐在員としてコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング(CTR)社(のち「インターナショナル・ビジネス・マシンズ」:IBM)のホレリス式パンチカード統計会計機械装置を日本に輸入し、日本ワットソン統計会計機械の営業を統括し、第2次大戦中は日本軍がアメリカ軍から接収したパンチカード・システムの修理に当たった。

 戦後、日本IBMが設立されるとチャールズ・デッカーと二人三脚で再建に奔走し、大田区糀谷工場でマシンの保守とサービス・エンジニアの養成を進めた。

 1960年のコンピュータ特許に関する日米クロスライセンス契約に際しては、会長の椅子をかけてアメリカ本社と交渉した。

 葬儀は4月21日、稲垣早苗が葬儀委員長として取り仕切って東京の青山葬儀所で行われた。稲垣は次のような弔辞を述べた。

私たち日本IBMが今日あるのは、本当にあなたのおかげです。あなたが荒野を切り拓き、 植え、育ててこられた一本の木には、現在一万二千本もの枝が出ております。

 日本陶器の会長・岩田蒼明は次のような惜別の言葉を贈った。

 IBM創始者であるトーマス・ワトソンの信念を心底から理解し、完全に実践したのはあなただったのです。生涯にわたり、サービスというIBMの信念を貫きとおし、あなたの後に続く人々に計り知れない教訓と影響を与えてくれた。

 岩田は早稲田大学を出て日本陶器に入り、入社早々、経済学を学んだというだけの理由で、直輸入したホレリス式PCS(パンチカード・システム)の担当になった。しばしば名古屋まで水品がやってきて、ワイヤリングの仕方を教え、計算機の保守の仕方を伝授した。日本における最初の計数計算機のユーザーであり、日本人初のCIOでもあった。

 アメリカ本社もワトソン・ジュニアが74年に引退していたので、IBM社は日米ともに世代交代が行われたわけだった。だけでなく、大型汎用機「IBM3033」、中型汎用機「IBM4341」の新シリーズに加え、SNAという”切り札”が整った。

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 椎名が社長として本領を発揮するようになったのは、まさにそういう時期に当たっていた。

 こう書くと、

 ――椎名はラッキーだった。

 と言っているように受けとられるかも知れない。もしそうだとすれば、それは筆者の筆力が足りないためであって、実をいえば、社長就任4年目の椎名はたいへんな荒海の舵取りに臨まなければならなかった。

 国内では富士通日立製作所日本電気東芝三菱電機沖電気工業の国産メーカー6社、日本ユニバック、日本NCR、バロースといった外資系メーカーと競わなければならなかった。国産メーカーの後ろには、通産省という手ごわい相手が控えていた。

 通産省は1978年7月に「特定機械情報産業振興臨時措置法」を公布し、79年度から7年間の期限付きで大型汎用機用OSと周辺端末装置を対象に「次世代電子計算機用基本技術開発促進費補助金制度」がスタートすることになっていた。こうして国産メーカーに投入された国の予算は超LSI技術研究組合に291億円、電子計算機基本技術研究組合に225億円に達していた。

 コンピュータの自由化に向けて、ハードウェアの輸入関税はコンピュータ本体が13.5%から10.5%に、周辺機器が22.5%から17.5%に引き下げられることが決まっていた。しかし日本IBMにとって政府機関や国公立大学地方公共団体は厚く高い壁だった。

 外資系、という理由だけで入札の門戸が閉められることが圧倒的に多かった。ネットワーク・アーキテクチャでどんなに優位にあっても、市場が受け入れてくれなければ二進も三進も行かない。一層の営業力強化に乗り出さざるを得ない。

 75年4月に行われた大幅な機構改革で役員人事は次のようになった。

 ●会長:稲垣早苗(会長室長:服部寿郎)

 ●社長:椎名武雄  

  経営会議担当:牟田口道夫(常務)

  ゼネラルビジネスグループ担当:中島敏

 スタッフ部門

  サービススタッフ担当:成瀬牧夫(常務)

  広報&テクニカルスタッフ担当:松浦隼雄(常務)

  ビジネスオペレーションスタッフ担当:伊藤和郎

  管理担当:坪谷次郎

  財務担当:上野正

  法務担当:高石義一

 副社長:濱口光彦

  現業部門 DPCE担当:鎌田慶治(常務)

  製造担当:長瀬晋

  藤沢研究所:三井信雄

  サプライ営業部:石井徹男

  DP営業担当:向野圭蔵

  DPマーケティングサポート担当:松永正義

  DPプロダクトマネジメント担当:亀田寿一

  ナショナルプロダクト担当:森下啓造

 ラインスタッフ機能を明確にすることで組織の効率を高め、間接部門を本社に集約することですべてが社長に報告されるようにした。

 ――社長に権力が集まる中央集権体制ではないか。

 という批判がないでもなかったが、椎名の本音は自ら営業の先頭に立とうというのである。大将が馬上の武者となって戦場を駆ける。はじめて騎馬軍団が破壊力を発揮するであろう。

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 トップが先陣を切る営業はすさまじい効果をあげた。

  78年 7月 安田生命:IBM3033

     9月 第一生命:IBM3033

     10月 鹿児島県経済連:IBMシステム/370モデル115

  79年 2月 日本生命:IBM3033

     3月 北陸電力:IBM3032

     4月 トヨタ自販:IBM3033

         新日本製鉄:IBM3032

     6月 日本リクルートセンター:IBM4341

     7月 関西電力:IBM3033

     8月 山口銀行:IBM3033

     10月 武田製薬:IBM3031

  80年 1月 清水建設:IBM3033

        帝国酸素:IBM4341

 この時期のIBM社のコンピュータが、性能において富士通・日立のMシリーズとほぼ互角であったことは否定できない。また、ユーザー向けのアプリケーション開発力、システム構築力においても優位であったとはいえない。にもかかわらず多くの企業がIBM機を採用したのは、つまりSNAを高く評価したからにほかならない。

 「何が画期的だったといって、プログラムの分散開発が可能になったことだった」

 というのは細川泰秀である。

 この人物は1937年(昭和12年)、静岡大学を出て八幡製鉄に入った。新入社員ばかりのチームを率いて休日返上、徹夜の連続で厚板圧延工程管理システムを作った。そのときプログラムを細かく分割して記述し、一つ一つをチェックしたのち結合する方法をとった。

 この方式は日本では評価されなかったが、イギリスのソフトウェア工学会が注目した。ソフトウェア・モジュールないし構造化プログラミング、あるいは「プログラマーなしのプログラミング」の初原的な実践例だった。

 「そのときはまさに紙とエンピツだった。それを紙カードにパンチして計算機に読み取らせた。それがSNAになったとたん、複数の端末からダイレクト・エントリーが可能になった。本番オンラインを動かしながらシステム・テストができる。つまりシステム開発の効率が飛躍的に高まった」

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 資料によると、それは以下のようなことだった。

長期不況に対して昭和五十一年に出された経営体質強化方針に応えて、薄板オンライン、エネルギー需給計画、総合設備計画など五つの大型システムの開発計画をスタートさせた。すでに稼働中のオンライン・システムが二十四時間運転しているなかで、これらの新システムのテストとさらに旧システムからの移行、追加を進行させるという複雑なシステム運営が求められたのである。 そこで、複数のコンピュータを含むネットワーク資源をそれぞれのプロジェクトが共有できるSNA複数システム・ネットワークを利用することとし、五十四年四月にまず単一システムのSNAを導入、翌五十五年八月、複数システムへの移行を完了した。このSNAの効果として、同製鉄所では、変更と拡張の容易なネットワーク、実機教育と並行テストの機会増加、回線コスト増の抑制、複数プロセッサーの有効利用の四点をあげている。(『日本IBM50年史』)

 システム構成図を見ると、新日鉄名古屋製鉄所のSNA複数システムは2台のIBM3032をIBM3705通信制御装置で連携させたものだった。一方のIBM3032でバッチ処理とオンライン処理および、センサー・プロセスとコンピュータ自動機器の制御を行いつつ、もう一方のIBM3032でユニット・テストと総合システム・テスト、エンドユーザー教育を実施していた。SNAで接続したのは3270端末装置、3630端末装置など計約450台、非SNA端末約100台だった。

 トヨタ自動車はIBM3033とグループ会社のIBMシステム/370を4800bpsの専用回線で結び、78年5月に「オールトヨタSMS(Specification Management System)」を構築した。複数のデータベース・システムをSNAで連携して、情報管理の集中と分散を実現したのである。

 「DB/DCシステム間の結合という困難を克服したものとして注目された」

 と記録にある。

 第一生命は契約保全・販売・経営の総合管理システムを実現するため、数多くの磁気ディスク装置や磁気テープなどに分散して格納していた各種のデータファイルを、磁気ディスク装置「IBM3350」「同3380」に集約した。集約された契約データ件数は約1000万件に及んだ。そのうえで同社は全国220か所に設置した「IBM3600」金融機関通信システムをSNAで結んで総合オンライン・システムを構築したのだった。

 かくして、SNAはコンピュータ・ネットワークのデファクト・スタンダード(事実上の標準)となっていく。のちに「支配力」とまで表現されるようになるIBM社の圧倒的な強さは、ネットワークを押さえたことにあった。ある技術をもって他をはるかに凌駕するシェアを獲得することが、支配権を持つというビジネスモデルがここに誕生した。1980年以後、それを観察し、分析していた多くの企業が、”デファクト作り”を戦略化していく。

 だが、日本IBMの前にはもう一つ、乗り越えなければならない高い壁が聳えていた。

 電電公社である。