書 紀

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日本書紀平安時代の写本):Wikipedia

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【補注】

元正天皇 げんしょう・てんのう/680~748。天智天皇の第四皇女元明天皇(阿閇皇女、草壁皇子の妻)の皇女として生まれ、氷高内親王を名乗った。弟の軽皇子(即位して「文武」在位697~707)が早世したことから、その長子である首(おびと)皇子に皇位を継承させるべく即位した母・元明天皇のあとを受け、霊亀元年(715)九月に即位した。 一般に飛鳥・平城初期の女帝は正統の男子に皇位を継承させるための「中継ぎ」(仲天皇)と理解されるが、この女帝は実権を握り、下級官吏の英才を抜擢して律令養老律令)を定め(718)、按察使を設置して王族・貴族の専横や山川の独占を取り締まり(719)、田地開墾の「三世一身の法」を定めるなど親政を行った。『日本紀』の編纂はその一環である。首皇子に譲位してのちも太上天皇として実権を持ち、のちの院政の先駆をなした。

首皇子 700~756。文武天皇の皇子として生まれ、和銅七年(714)立太子ののち、養老六年(722)に即位する予定だった。しかし妃・光明子の父・藤原不比等と伯母・元明天皇の死(720、721)が重なったため、続飯は神亀元年(724)に延期された。諡号聖武」の名が知られるが『続日本紀』などによると「勝宝感神聖武皇帝」が正しい。藤原四兄弟が裳瘡(もがさ=天然痘)で相次いで没したことをきっかけに仏教に帰依し全国に国分寺平城京に総国分寺として東大寺を建立した。 仏教興隆を軸に天平文化が花開く一方、国の疲弊を招いた。天平十二年(740)から5年間、難波、伊勢、美濃、近江などを転々とした事情は古代史上の謎とされる。

舎人親王 とねり・しんのう/675~725。天武天皇の皇子で皇位に最も近い地位にあったが、天智系の女帝によって立太子を阻止され、皇族筆頭の地位に甘んじた。『日本紀』編纂を掌り養老四年(720)に完成させた。藤原不比等の死以後は知太政官事として政治を切り盛りした。没す るや太政大臣の位を贈られ、さらにのち実子の大炊王淳仁天皇)が即位すると祟道尽敬皇帝の号を贈られている。

日本紀系図 宋・太宗の雍熈元年(984)、日本から 奝然(ちようねん/937~1016)という僧が海を渡り宋王朝朝貢した。そのとき献じた品々中に『王年代記』という書物がある。この『王年代記』こそ散逸して現存しない『日本書紀系図の痕跡を伝えると考える向きもある。しかし漢字二文字の天皇名(漢風諡号)は、淡海三船(722~785)が定めたとされるほど後世の創作になるものであって、『書紀』本文には全く使用されていない。巻頭に表記されているのは後世の写本時の混入である。散逸したとされる『書紀』系図が漢風諡号で記述されていたとは考えられないから、『王年代記』が『書紀』系図写本であるとするのには 困難がある。神代に登場する神々の名が『書紀』諸本と一致 していないことも、その説を否定する根拠となる。ただし『王年代記』には神武までの歴代が筑紫城に居していたなど独自の記事を含んでいる。そこで同書は平安中期にいたっても天皇系図は一定せず、諸種の異伝があったことを示す文献証拠と考えることができる。

学際研究 日本古代史研究に他分野の専門家が切り込んだ 最初は、1984年(昭和二十三)7月、東京・御茶ノ水の喫茶店で行われた三日連続の座談会で江上波夫氏が発表した《騎馬民族征服王朝》説である。 同説の詳細には立ち入らないが、ユーラシア大陸における民族の動静と日本国家の成立を連携させる考え方は、こんにちの「東アジアの中の日本」という発想を先取りしたものだった。これをきっかけに考古学と文献学ばかりでなく、動植物学、気象学、海洋学、金属・冶金学、建築・土木学といった 複数の異なる学問分野の専門家が共同で研究するケースが増え、現在は熱ルミネセンス法による年代測定や遺伝子分析による種族研究がごく当たり前に行われ、「水中考古学」といっ た新しい学術分野が開かれつつある。

中国華北の言葉 漢時代の中国宮廷語。その発音は「上古音」と称され、後漢の永元十二年(一〇〇)に許慎が著わした辞書『説文解字』がその基準となっている。日本列島の王権は朝鮮半島経由で中国王朝と交渉したため、華北訛りが入った上古音が流入した。「行」を〔ギョウ〕と発音するのは上古音である。

中国江南の音 南北時代の南朝の中国宮廷語。「中古音」。晋が滅びたあと、華北五胡十六国の興亡を繰り返し、隋が全土を統一するまで(4~6世紀)、日本列島の王権は中国江南の王朝と関係を持った。中古音では「行」を〔コウ〕と発音する。また江南地方特有の音(訛り)も入ってきた。「梅」を〔メイ〕(上古音では〔バイ〕)、「馬」を〔マ〕(同〔バ〕)と発音する類である。ちなみに五世紀までの日本人は「m」で始まる単語をうまく発声できなかった。唇をいったん閉ざしてから音を発した。このために「梅」は〔nメイ〕(ウメ)、「馬」は〔nマ〕(ウマ)になった。

唐の音 隋が全土を統一し唐が長期にわたって栄えた七世 紀から十世紀にかけて、長安で使われた標準語。華北音と江南音が融合し、初めて統一的な発音が成立した。これを「唐音」と呼ぶ。わが国には遣唐使随行した学生たちが習得してもたらした。「行」を〔アン〕と発音するのは唐音である。

平安初期における温故知新・保守回帰の風潮 平安遷都(794)以後、『古語拾遺』(斎部広成、807)、『新撰氏姓録』(万多親王ら、813)、『内裏式』(藤原冬嗣ら、820)などが著わされた。その風潮を決定的にしたのは大同四年(809)に始まった平城宮の再建、平城上皇の平城転居である。この風潮の中で起こった藤原薬子の変もまた、急速に変化する時代に対する抵抗の一つだった。