5.50を超す松平家のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

f:id:itkisyakai:20210705151444j:plain

松平氏発地跡」の碑(愛知県松平町

 信広と信光のどちらが兄、どちらが弟だったかはさておき、信光(和泉入道)は足利第3代将軍義満の応永11年(1404)ごろ生まれ、第9代将軍義尚の長享2年(1488)ごろ没したと考えられている。

 若いころ松平郷を出て室町幕府政所執事だった伊勢貞親(1417〜1473)に仕え、三河に戻って「左京亮」を自称した。左京亮というのは律令で京都の民事を司り治安を守る「京職」の2等官だが、並行して接近した三河守護細川成之(1434〜1511)が「右京大夫」(右京職長官)だったので、その補佐役というような意味ではなかったか。

 三河では岩津(岡崎市)に館を構え、嫡系の孫である親長のときまで、岩津の松平家が「武家としての松平家」の本拠だった。58歳のとき応仁の乱が勃発し、細川成之に味方して一色、畠山の領分を侵した。深溝、長澤、安祥などに勢力を広げることを得たのは、乱世ならではだった。

 太郎左衛門家が「本家」なので、信光の正統は「宗家」「惣領家」を称した。その系譜は信光―親忠―長親―信忠―清康―広忠と続き、広忠の嫡男元康がのちに家名を「徳川」、諱を「家康」と改めた。

 信光は48人もの子をなしたといわれている。女児は三河國内の國人に嫁がせて姻戚となり、男児には城を与えた。男児は各々自力または連携して、所領を広げることを旨とした。点を線に、線を面に広げて行って、最後には三河一国を松平氏の網で覆う作戦といっていい。

 信光が立てた分家は次のようになる(→は江戸開幕直後の知行石高)。

  • 竹谷家:長男守屋 → 武蔵八幡山1万石
  • 形原家:3男与副 → 三河形原1万石
  • 大草家:4男光重 → 旗本6千石
  • 五井家:7男忠景 → 旗本6千石(下総海上郡
  • 能見家:8男光親 → 下総関宿2万6千石
  • 丸根家:9男家勝
  • 長澤家:11男親則 → 嗣子なきにより養子:越後高田45万石(75万石、65万石、55万石など諸説がある)/ 庶流:相模玉縄1万石 / 庶流:旗本500石

 竹谷、形原、大草などは分家して館を構えた地名である。戦国のときの館とは当主と家族、奉公人の住戸でもあり、周辺に家臣の住まいが建ち並んだ。それを「根小屋」と呼び、火急のとき立て籠もる山頂の砦と併せ、全体を「城」といった。天守閣を備えるようになるのは、安土・桃山以後の話である。

 信光のプランは次代の親忠にも受け継がれた。

 親忠から分かれたのは次のようだった。

  • 岩津家:長男親長 → 三河西尾2万石/豊後府内2万2200石/美濃岩村2万石
  • 大給家:2男乗元 → 三河大給2万2千石
  • 西福釜家:5男親光
  • 矢田家:6男張忠
  • 滝脇家:9男乗清

 永正5年(1508)8月、伊勢宗瑞が率いる今川軍によって岩津城が落城したのを機に、長親は住まいを京都に移したと考えられている。

 その結果、「宗家」の家督を襲った親忠義3男の長親からは次の4家が出た。

  • 福釜家:2男親盛 → 旗本1千1百石
  • 櫻井家:3男信定
  • 東条家:4男義春 → 武蔵忍10万石
  • 藤井家:5男利長 → 常陸土浦3万5千石

 「宗家」の家督は長親の長男信忠から、その長男清康に受け継がれた。清康が家康の祖父となる。信忠の男児(清康の弟)は次の2家を立てた。

  • 三木家:2男信孝 → 旗本500石
  • 鵜殿家:3男康孝

 このほか、五井松平家から深溝松平家が、滝脇松平家から麻生松平家が出た。太郎左衛門家と宗家(惣領家)、1代で絶えた麻生、矢田の2家を除いて「十八松平」または大名・旗本となった家を数えて「十四松平」などと称される。

 徳川家はこのほかにも譜代大名や有望な家臣に「松平」の名乗りを許したので、同時期に存在した「松平」姓の家は50に及ぶ。その中から清左衛門が抜擢されるには何があったのか。

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。

今篇の参照は

● 松平信光 - Wikipedia

● 十八松平 - Wikipedia

 

アクセスカウンター