6.代官の俸禄と勘定方のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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寛政重修諸家譜

 松平清左衛門については、徳川将軍家の家臣について出自や来歴を記した『寛政重修諸家譜』に記録が残っている。寛永(1624~1645)から寛政初年(1789)までの2132家をまとめたものだ。編纂されたのが寛政年間(1789〜1801)だったのでこの名がある。

 それによると、

 諱は親正といい、俗名は清左衛門、市右衛門、清左衛門と称す。

 寛永六年、召されて台徳院殿に仕え奉り、御代官となり、廩米五百俵を賜う。寛文六年四月二十八日に致仕す。九年七月十三日死す。年七十五。法名浄入。牛込の来迎寺に葬る。のち代々葬地とす。妻は松平清四郎重忠が女。

 とある。

 寛永6年は西暦1629年、台徳院殿は2代将軍秀忠のこと、廩米は江戸城米蔵から給される玄米をいう。廩米1俵は知行1石に相当する。すなわち清左衛門は、石高500石の領主に準ずる扱いで秀忠の家臣となった。当時、清左衛門は遠江國の中泉代官の職にあったのだが、寛永6年に義父清四郎重忠が隠居して家督を清左衛門に譲ったのである。

 寛文九9年(1669)に満75歳で亡くなっているから、生まれたのは1595年、豊臣関白家の後継者と目された豊臣秀次高野山で自害した文禄4年(文禄2年:1593年誕生とする説もある)ということになる。

 ちなみに白岩一揆を引き起こした酒井忠重は、清左衛門より3年あと、慶長3年(1598)に生まれている。清左衛門が将軍秀忠に御目見得して禄高500俵の旗本列したとき、忠重は従五位長門守の叙任を受け、出羽國村山群白岩郷8千石の領主だった。

 酒井氏は松平氏と同じく世良田親氏の子孫を称し、重忠は徳川四天王の猛将酒井忠次の孫、越後高田城10万石の酒井家次の三男である。むろん名門の酒井重忠と、「松平」姓とはいえ一官吏に過ぎない清左衛門を比べるのがそもそも間違っている。家柄の違いはことほど左様に江戸期の人々の人生を決めた。

 それにしても、廩米(蔵米)500俵の旗本が石高6万3千石の最上幕領代官に任じられたというのは、やや尋常に欠ける。幕府が定めた蔵米1俵は3斗5升、俸給の基準は人1人当たり1日5合(年約2俵)だったので、俸禄500俵なら25人を養うことができる、という計算である。

 知行500石相当の旗本に相応しい服装、装具を整え、登城する際は供揃え11人(馬の口取、供侍、冑持1、槍持1人、小荷駄持2、挟箱持1、草履取1、立弓持1人)を従える規定だった。むろん、このほかに家族がいるし、賄いと家内雑事の中間・小女も養わなければならない。

 このうえに幕領の公事方(治安・警察、法務・裁定)、勘定方(検地、年貢、財務)、人別方(宗門改)を自腹で負担するのは無理がある。そこで贈収賄が横行……というのが時代劇の定番となるわけだ。

 4代将軍家綱のころまで、あくまでもメドではあるけれど、差配地の石高が5万石を超える場合、その統治には「布衣」と呼ばれる旗本を当てた。布衣とは京都朝廷における従六位下相当、俸禄は1千石以上の大身が通常である。実際、清左衛門の前任代官、小林十郎左衛門時喬(ときたか)の俸禄は廩米1千俵(知行1千石相当)だった。

 小林時喬が差配した石高は5万5千石である。時喬が出羽代官に就任した寛永13年(1636)とでは状況が大きく違っていたから単純な比較はできないにしても、寛文6年(1666)、72歳になった清左衛門が致仕(隠居)したとき、最上領の石高は11万5千石に膨らんでいた。

 この間、清左衛門の俸禄が増えたとも、職を転じたとも記されていない。廩米500俵のまま、足掛け25年も最上代官を勤めたわけだった。幕閣ならいざ知らず、官吏としてかくも長く1つの職に就いていたのは珍しい。

 清左衛門が家格・俸禄を超えた出羽最上領の代官を長く続けることができたのには、カラクリがある。寛永19年(1642)に行われた幕府勘定方の機構改革がそれであって、その年、勘定頭(のちの勘定奉行)が設置され、代官はその下に置かれることになった。

 伊奈忠次にはじまる代官は、将軍家直轄領(幕領)について「将軍の代理人」として絶対的な権限を持ち、大久保長安のように金銀をくすねて私腹を肥やす非道も出た。あるいは年貢を徴するため、領民に無理難題を課す苛政も珍しくなかった。検地が定めた石高そのものが過大だったりもした。

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。

今篇の参照は

●『江戸幕府の代官群像』(同成社)村上直:1997年1月20日

● 寛政重修諸家譜 - Wikipedia

● 旗本と御家人 : 大江戸歴史散歩を楽しむ会

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