7.信光に傚った弥三郎のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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伝「松平宗忠公墓」(浄願寺)

 寛永19年(1642)に行われた幕府勘定方の機構改革について、続き。

 勘定方改革は「将軍の代理人」として特権化されていた代官の権限を制限し、職務を規定して官僚機構に組み込むことに目的があった。同時に幕領差配の経費についても、幕府財政で補填することとなった。すなわち徴収した年貢5万石当たり70人扶持(130石)、金600両(600石相当)が補給されるのである。

 清左衛門の最上代官就任は、まさに寛永19年のことだった。俸禄500俵のほかに役料――例えば差配地の石高が10万石なら役料260石と1200石相当の現金――が出ていたのなら、経済的には職務を継続することができただろう。だがそれは、幕閣が清左衛門を罷免しなかった事由にはならない。

 話を元に戻して、同時期に50を超える「松平」家があった。それは松平郷の本家(太郎左衛門家)、宗家(惣領家:岡崎家=徳川家)のほか、18もの分家があったことに由来する。

 松平氏には松平郷の本家(太郎左衛門家)、宗家(惣領家:岡崎家=徳川家)のほかに18もの分家があった。さらに徳川家は譜代大名や有望な家臣に「松平」の名乗りを許したので、50を超える「松平」家が存在した――ということを、先に書いた。

 そこで書き忘れていたのは、清左衛門の家筋は「十八松平」ないし「十四松平」のいずれなのか、庶流傍流の末枝なのか、である。勿体をつけずに答えを先に書くと、「いずれでもない」が正しい。強いて言うと長澤松平家の流れを汲む「右馬允家」ということになる。

 長澤家は、宗家初代信光の11男親則が三河の長澤に館を構えたことに由来する。

 親則については、珍しく俗名と生没年が分かっている。

 俗名は「源七郎」といい、「備中守」を称していた。生まれたのは室町第6代将軍足利義教の永享9年(1437)、没したのは室町第9代将軍義政の寛正2年(1461)旧暦10月1日である。

 父親の信光が生まれたのは応永11年(1404)から同20年(1413)の間と推定されていて、親則が誕生したとき信光の年齢は25歳から34歳である。さて、34歳までに11人もの男児を得ることができるものかどうか。

 ――さすがにそれは無理筋ではないか。

 という指摘がある。

 これに対して

 ――歳が離れた弟。

 とするのは、あり得ない話ではない。

 信光の父親が泰親か親氏か(本家第3代泰親は第2代親氏の子ではなく弟で、信光は親氏の息子とする見方がある)は別の機会に語るとして、60歳を過ぎても子をなすことはできたであろう。

 長澤家は徳川家にとって、なにがしか格別な意味を持っていたらしい。家康は嗣子なく断絶しかかった長澤家に5男松千代、その松千代が夭折したために6男辰千代(忠輝)を入れて家督を継がせ、越後高田城45万石に封じている。それは、叔母(祖父清康の娘)の碓井姫の嫁ぎ先、つまり従兄弟筋だったためである。

 では清康が碓井姫を嫁がせた理由は何だったかといえば、長澤家が宗家と並ぶ由緒を有していたからではなかろうか。

 ついでながら、長澤家は初代親則―親益―親清―勝宗と続いたとされるが、実在が確認されるのは親清以後の系譜だという。親則、親益は長澤家の代数を増やす(開祖からの緣を遠くする)ために挿入された後世の創作であるかもしれない。ただし、ここではこれ以上は触れない。

 勝宗の2男宗忠は俗称を弥三郎といい、嫡男一宗の家臣となることを嫌って自ら「右馬允」(うまのじょう)を称した。右馬允は律令にいう馬寮司、守・介・尉・典(かみ・すけ・じょう・さかん)の4等官の3番目、朝廷における叙位は正七位下もしくは従七位上に相当する。

 時代小説、時代劇的に描くなら、弥三郎は長澤を出奔して京に向かい、西京雀森に住まいしていた旧宗家(岩津家)の当主親長、さらには室町執政の伊勢氏を通じて朝廷の馬寮に潜り込んだ。応仁・文明の乱(1467~1477)のあと、焦げくささが残る混乱の中であれば、あり得ないことではない。

 当時の京は、供も連れず地方から単身飛び出してきた武門の若者で溢れていた。どんなに細い糸であっても、伝手にすがって官衙で雑用をこなし、ないものは小路の市で商人の手下(てか)になった。まずは喰らい、寝る場所を得れば、あとは才覚一つである。

 朝廷にあっては、正七位下であろうと従七位上であろうと、地下人であることに違いはない。特段に気配りすることも詮索することもなかった――かどうかは定かでないが、ともあれ三河の田舎にあって「右馬允」の名乗りは弥三郎の存在感を際立たせた。

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。

今篇の参照は

● 古瀬間城址 (こせまじょうし)

● 長沢松平家 - Wikipedia

【口絵】写真は 三河 古瀬間城の写真集-城郭放浪記 から

複数の書籍、資料から組み立てた右馬允家の系譜は次のようである。

図中「…」は婚姻・養子関係。

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松平右馬允家の系譜(江戸幕府初期まで)

 

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