8.家督をめぐる下克上のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、一緒に想像しながらお楽しみください。

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松平郷園地(松平町)に建つ松平親氏の像

 武家とは何であるか。

 平たく言い換えれば、「武闘を生業とする家」である。個人であれば武士、侍だが、家業となると主人がいて、家臣と下僕がいる。主人はもちろん、家臣にも下僕にも家族がいる。家臣や下僕の生活を支えるために、主人は武家であり続けることが求められる。

 さて、「武家」となった松平家の初代信光が、京から戻って「左京亮」を名乗ったように、弥三郎宗忠は右馬允を名乗った。信光の亮は2等官、弥三郎の允は3等官という違いはあるが、弥三郎は祖先信光と同じ志を持ったに違いない。

 弥三郎が名を残すのは、永正3年(1506)である。

 松平宗家第3代長親(岩津家親長の弟)はその前年、挙母の高橋荘(豊田市御立町鷹取神社近辺)を攻略せんと、弥三郎をして荘を見下ろす高台に砦を築かせた。実態は砦とはいえ、弥三郎は初めて城持ちとなった。すなわち小瀬間の山城であって、その山懐の浄願寺に「松平弥三郎宗忠公の墓」と伝わる多宝塔が建っている。

 松平氏の由来を記した文書には、『松平太郎左衛門口伝』『三河物語』『徳川家譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『武徳大成記』『称名寺略記』『系図纂要』『鑁阿寺新田足利両家系図』などがある。基となったものが何であるか、すでに失われていて分からない。

 多くは家康が「徳川」に改姓した永禄9年(1566)ごろから形を整え、征夷大将軍に任じられたあと正規版として編纂されたらしい。徳川家の出自を飾るために、少なからずの修正と創作が施されたのは間違いない。

 読者にあってはやや興ざめであろうけれど、松平氏の代々について、生没年を検証してみる。家康が影武者でない限り、その生没年はまず動かない。そこで家康からさかのぼっていく。

 家康は初名を竹千代信元といい、今川義元の扁字を与えられて元康といった。武家松平氏宗家の9代目だが、6代前の親忠のとき、本来の宗家だった岩津家が三河を捨ててしまったので、安祥松平家を創始した親忠が宗家を継いだ。つまり家康は宗家の9代目、安祥松平家の6代目である。

 安祥家6代 元康 1543~1616

    5代 広忠 1526~1549

    4代 清康 1511~1535

    3代 信忠 1490~1531

    2代 長親 1473~1544

    初代 親忠 1431~1501

 5代広忠が4代清康15歳のときの子というのがちょっと引っかかるものの、安祥家の系譜はおおむね矛盾がない。

 安祥家初代親忠が岩津宗家を継いだのは、永正3年(1506)から同17年(1520)の間とされる。それ以前に岩津松平家は西京雀森に住まいを移していて、生没年を知る手がかりがない。すなわち岩津宗家代々の生没年は

  3代 親長 未詳

  2代 守屋 未詳

  初代 信光 1404?~1488?

 となる。

 弥三郎宗忠の生没年は不明だが、活躍した時期は安祥宗家2代長親とほぼ重なることが分かる。挙母豊田市)の古瀬間に砦を築いたのは、伊勢新九郎(長氏)が率いる今川軍が岩津城を落としたころ、安祥家が宗家を継いだころである。

 本家が没落し嗣子なく断絶するのを回避するために、古来、養子という不文律の制度がある。岩津宗家と安祥家の場合、弟(親忠)が兄(守屋)の養子となったのか、従兄弟同士(親長と長親)の間で義理の親子関係が結ばれたのかだが、諱の類似(親と長を重ねただけ)からすると、長親―親長の関係は創作かもしれない。

 初代信光の没後まもなく、岩津宗家2代守屋の養子として安祥家初代親忠が入ったとするのは、「幼長の序」が重んじられた江戸儒教の世界観である。安祥家2代長親が老齢な守屋に実父親忠、または自身に家督を迫ったとする方が、リアルな感がある。松平家の内で家督相続をめぐる下克上が起こっていたというわけだ。応仁・文明の乱と構図がよく似ている。

 そのようにして見ると、宗忠が京に出奔したのは兄(長澤松平家惣領)の家臣となることを嫌ったからではあろうし、なぜ家臣となることを嫌ったかといえば、兄より自分の方が優れていると自負したからであろう。けれどその背景に宗家家督の下克上があった可能性は否定できない。

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。

今篇の参照は

● 松平親氏 - Wikipedia

● 松平親氏 | 歴史 | みかわこまち

 

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