9.大義名分と義理仁義のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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応仁の乱真如堂縁起絵巻

 松平郷の有徳人太郎左衛門の家に入った時宗の出家「徳阿弥」と岩津家初代の信光、信光と安祥家初代の親忠は、それぞれ中1代をおいて祖父―孫の関係にある。このような一定のリズムを伴う繰り返しは、未詳不明な家系を捏造する場合の常套手段である。

 どういうことかというと、祖父が家を始め、孫が家督の相続をめぐって下克上を起こす。家督の旧風に囚われない改革と解すれば、長親の孫・清康、清康の孫・家康と、度合いの違いはあれど一定のリズムを持っている。

 このあたり、いかにも創作が行われた痕跡に思える。かといって創作であることを立証するに足りる物証は残されていない。親忠に始まる安祥松平家の系譜は、「おおむね妥当なところ」とするほかにない。

 以後は余談だが、徳川家の起源とされる松平親氏は、平穏に暮らしていた有徳人の家に郎党を率いて転がり込み、乱暴狼藉を働き、すごみ、脅し、居座って家督を奪った無頼者にほかならない。それを元下野新田郡得川郷の武士にして、時宗の寺で出家した「徳阿弥」に仕立てた加筆修正の力量は大したものではある。

 松平町の公園に建つ親氏の銅像は、むろん現代の想像にすぎない。その姿は上衣の前をはだけ、山袴の裾をからげた半裸である。裸は野蛮無頼の証であって、虎視眈々と下克上の機会をうかがった地下人信光の映像が重なっているように見える。

 右馬允松平家の初代弥三郎宗忠、清四郎親常、清蔵親宅の3代が生きた時代について、 教科書日本史は、

 「応仁・文明の乱(1467~1477)が戦国の幕を切って落とした」

 と記述する。

 実質的に幕府を動かしていた細川勝元山名宗全の主導権争いと、畠山・斯波2家の家督争いが、京に軍兵を引き込んで兵馬弓槍を交わすことに発展した。

 その背景は「足利将軍家の権威が薄れたこと」というのは表面的な言い方でなはないか。そもそも組織の長というものは、次席の長なり次々席の後継者なりの手腕に依存している。政権を切り開いた初代、その腹心が支える2代目までは専制的な統制が利くが、3代目以後は次席、次々席の名目となっていく。

 実際、足利将軍家は6代将軍義教(1394~1441)が親政と専制を復活させたものの、義教が赤松教康の手にかかり、第7代将軍義勝が夭逝して以後、第9代義政は管領織の衆議で決定という具合に、名実ともに形骸化した。

 これは将軍家だけのことではなく、同じようなことが管領家政所執事家でも起こっていた。中央に位置する者が次席の長に担がれ、その副長が次々席の長の言うがままになるのは、現代でも珍しいことではない。そのようなことになる背景には、社会を縛る規律が雲散霧消したことがある。

 将軍に就くべき人を管領職や政所執事らの衆議で決めるなど、代議員制の議会でならともかく、封建制武家社会ではあり得ない。規律を無視して妥協点を探る「いい加減さ」が、不文律さえも無効にしてしまう。

 それを決定的にしたのが明応2年(1493)4月に発生した細川政元による将軍義材の廃止と義澄の擁立である。室町のゴタゴタが河内、紀伊、伊勢、大和、若狭、越前に飛び火し、美濃、尾張信濃、阿波、丹波、加賀、越中が動揺した。

 この政変こそが戦国の引き金になった、とする見方もある。

 箱根・碓氷の東側には、鎌倉公方家があった。足利尊氏の4男基氏が鎌倉府に封じられ、氏満―満兼―持氏―成氏と世襲し、成氏が康正元年(1455)6月、本拠を下総古河に移して「古河公方」を称した。

 公方家は関東管領上杉氏における扇谷家と山内家の内紛に乗じて鎌倉府の回復を図りつつあったとき、明応2年(1493)の夏、伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が箱根を超えて相模に乱入したのは、明応の政変が直接の原因といっていい。

 ただし、応仁・文明の乱ないし明応の政変を境に全国が千々に乱れ、一斉に下克上が起こったわけではない。規律が雲散霧消し不文律も無効になったとはいえ、室町の体制に組み込まれていた政治・軍事組織には大義と名分が必要だった。

 将軍が発した指令を守護大名が受容したのは、自身の欲求と行動を正当化できる限りにおいてである。つまり大義名分というものであって、それを探り続けるのが室町将軍の仕事になった、と言うこともできる。

 尾張守護細川家の被官の一族だった織田信長は、実の妹の嫁ぎ先である浅井家を呆気なく攻め滅ぼし、比叡山に火をかけた。一方で、足利将軍家に膝をついた。信長は革命家であるかどうか。結果として、室町の価値体系の擁護者であったかもしれない。

 

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。

今篇の参照は

● 応仁の乱 - Wikipedia

● 明応の政変 - Wikipedia

● 鎌倉公方 - Wikipedia

【口絵】「真如堂縁起絵巻」にある応仁の乱

 

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