11.天下布武の後継者のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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島井宗室に「家康が初花を献じた」と伝える千宗易の手紙

 肩衝の茶入「初花」は、織田信長が元亀2年(1571)と天正2年(1574)の茶会で使用したことが記録されている。のちに秀吉が毎回の茶会で棚に飾ったのは、おそらく信長がそのようにしていたことを真似たのに違いない。

 その後、天正5年(1577)の12月末、嫡男勘九郎(信忠)が三位中将に叙任されたとき、その祝いとして譲られた。

 どちらかといえば、

 ――天下布武を後継する者。

 その証という意味のほうが大きかった。

 信忠はそれを自身が城主である岐阜城内の蔵に秘蔵していた。

 天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変の直後、岐阜城留守居役の稲葉利堯は混乱を収めるのに精一杯だった。蔵の中から「初花」が消えているのが発覚したのは、清洲会議天正10年6月27日)が開かれる直前である。

 以後、行方は遥として知れない。

 ――それが、なぜ、ここにあるのか。

 である。

 弥八郎(正信)の調べでは、

 ――かの右馬允清蔵、出家して念誓が申すには、岡崎を逐電したのち三位中将どのの同朋衆となり、たまたま岐阜の城に居合わせた。本能寺の折、何者かが蔵より取り出すのを認め、これを打ち懲らしめた。ところがその後の騒動で返還の機会を失い、止むを得ず保管していた。お屋形さまより然るべくご返却願わしゅう。

 という。

 弥八郎は永禄6年(1563)に起こった三河一向一揆に加勢して家康に歯向かい、一揆が挫折に終わると三河を捨てて加賀に出奔した。その後、元亀元年(1570)を大きく過ぎないころ、徳川十六将の一に数えられる大久保七郎左衛門(忠世、のち小田原城4万5千石)が仲を取り持って徳川家に帰参していた、という。

 あるいはまた本能寺のとき、堺に遊んでいた家康の許に馳せ参じた。弥八郎らの援けを得て、家康は伊賀を越え、伊勢から三河に戻ることができたともいう。家康が自分に楯突いた家来を腹心として重用したのは、領国運営と対外政策に、厳しい評価と諫言が必要と理解していたからとしか思えない。

 さて、念誓である。

 なるほど清洲の吏僚に「畏れながら」と差し出せば厳しく詮議され、盗人として処断されるであろう。しかるべき継承者に手渡すにしても、織田の家督は信忠の遺児・三法師(のち三郎秀信)だが、信忠の弟(信雄、信孝)もいる。

 念誓の口上がどこまで本当かは分からないが、筋は通っている。

 ――蔵より取り出したのは念誓本人であるやもしれませぬが。

 弥八郎の一言に対して、

 ――にしても、でかした。

 と家康が膝を叩いたかどうか。

 ともあれ、家康が肩衝の茶入「初花」を秀吉に献じたのは天正11年(1583)5月の末もしくは6月の初旬である。賤ヶ岳合戦勝利の祝いという名目だが、「初花」であればこそ、それ以上の意味を伴った。すなわち、家康が秀吉を信長の後継者として認めたということになる。

 家康は永禄4年(1561)以来、信長の同盟者であって、秀吉からすれば一段格上の存在である。その家康が「天下布武の後継者」の証を献上するとなれば、いかにして家康が手に入れたかを詮索するのは野暮というものだ。

 秀吉は大いに喜んだ。

 そのことを、茶の導匠として秀吉と親しく接していた千宗易(利休)が、「六月廿日」付で博多の豪商嶋井宗叱(宗室とも)に書き送っている。

 秀吉は明智光秀を山崎合戦で討ち、1年ほど山崎に築いた城を拠点にしていた。この4月に賤ヶ岳で柴田勝家を討ち、いよいよ秀吉は天下人の地位を固めつつあった。家康は面白くなかったに違いないが、面目を施したことは間違いなかった。

 松平清蔵と「初花」にまつわるエピソードは、うまく書けば1作の小説になる(かもしれない)。だがここは最上代官となった清左衛門(親正)に話を結びつけるべく、先を急ぐことにする。

 肩衝茶入「初花」の功により、家康は念誓への褒美として、相州貞宗脇差を与え、本人が希望するままに岡崎城の南2里、土呂郷に茶園を営むことを許し、代々諸役免除とした。これにより右馬允家は土呂郷に屋敷を構え、産した茶を宗家に献上することが通例となる。

 

【注】本稿は様ざまな書籍、資料およびWikipediaやWebサイトの情報を参照して組み立てています。今篇の参照は以下の通りです。

● 本多正信 - Wikipedia

● 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia

【口絵】福岡市博物館だより67号(2007年6月25日)から

 

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