12.石川与七郎逐電のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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土呂御坊のあとの一画に土呂陣屋(城)が置かれた:土呂八幡宮

 松平清蔵(親宅)改め念誓は、家康の許可を得て土呂郷で茶園を営むようになった。

 この当時、すでに生業に屋号を付けるのが通例になっていた。天王寺屋、納屋、薩摩屋、堺屋といった具合である。念誓の店も「◯◯屋」を名乗ったに違いないのだが、現在は伝わっていない。郡の名を取って、本稿では「額田屋」ということにしておきたい。

 念誓にとって、茶園の開業は時宜がよかった。折から同じ年、家康は浄土真宗一向宗)の禁制を解いたばかりだった。さかのぼること20年、永禄6から同7年(1563~64)にかけて三河一向一揆が吹き荒れたためである。

 その戦火で壊滅した土呂御坊「本宗寺」の跡地を、家康の命を受けた岡崎城代の石川与七郎(数正)が更地にして、八幡宮と陣屋を建てた。八幡宮は現存し、陣屋は「土呂城」跡となっている。

 さらに与七郎は門前町を取り壊して、物流と商取引の場とした。のちに「三八市」(3と8の日に立つ市)となって継続した。3の日は「上市」といって主に海産物が、8の日は主に野菜が取引され、それを契機に、土呂郷は近在からの物資が集まる商業地として栄えるようになった。

 さらに元亀2年(1571)、家康は京の宇治から又一という若い茶師を呼び寄せて茶木の栽培を命じている。茶の湯は信長、秀吉のとき頂点に達し、家康もその世界の一員として嗜んだ。宇治に匹敵する茶園を自身の城下に持とうとしたわけだった。

 又一の先祖は丹波の国人で、姓は上林、諱を政重といい、千宗易の門下で「竹庵」の号を持っていた。岡崎に移り住んだのは22歳のときである。俸禄は100石だったとされている。摘採(茶摘み)前に藁の菰で茶木を覆うこと、茶葉の蒸し方、風の送り方など、製法のコツを伝えたのは上林又一である。

 念誓と共同で茶園を営むうち、家康に仕えて士分となり、旗本馬廻衆として戦場を駆け巡った。のち、関ヶ原戦役の前哨戦となった伏見城で討ち死にした。享年51。茶の栽培より兵馬のことのほうが性分に合っていたのか、家康の人柄に惚れ込んだものか。

 ともあれ念誓が土呂郷で茶園を始めた背景には、そのような事情があった。

 だけでなく、かつて一向宗が栄えた地である。禁制が解け、額田屋は踊り念仏の道者(念誓)が営むとなれば、繁忙期に近郷から人数を集めることができたのであろう。

 額田屋は翌天正12年(1584)に初産の茶葉を宗家に献上したし、併せて酒造の許しも得た。旗本でありながら諸役免除の特権がある。第2の人生はまず順調と言っていい。 

 天正13年(1585)の11月、不可思議な出来事が出来した。

 岡崎衆筆頭で岡崎城代かつ土呂郷を差配した石川与七郎が逐電し、豊臣秀吉の幕下に入ったのである。現在でいえば役員クラスの事業部長がライバル会社に転籍するのに等しい。

 家康は歯噛みをしたに違いない。

 しかしこの時代、合戦で寝返りを打つのは決して卑怯なことではなかったし、主替えも無節操とは非難されなかった。主に刃向かった本多弥八郎(正信)、主替えして織田信忠に仕えた念誓が帰参を許されたのも、そのような戦時特有の倫理観に依っている。

 食品の長期保存も蓄財もできず、日の出とともに起き、陽が暮れれば寝る。その日その日を食べることができればそれでよし、合戦となれば命のやり取りである。その割り切り方は、「覚悟」と言い換えていい。

 石川与七郎に代わって岡崎城の城代となったのは、本多作左衛門(重次)である。このとき57歳である。若いころは依怙贔屓せず、理解力があって判断と指示は明快だったが、年齢を重ねるにつれて短気短絡と頑迷さが目立つようになっていた。

 加えて歴戦の創痍で片目が潰れ、頬にざっくりと引きつれが走り、指が欠け、歩くには右足をひきずった。見た目はいかにも恐ろしげである。そのことから作左衛門は「鬼作左」と異称された。

 念誓が予想できなかったのは、家康から長澤郷と土呂郷の差配を任されたことだった。2郷合わせて17か村、石高は2400石ほどである。

 長澤郷は松平長澤家の本拠であり、かつて岡崎三郎(信康)の知行地だったころ、念誓が長澤城の城代を務めたことがあった。一方の土呂郷は、というと、一向宗の色合いが濃い土呂郷に鬼作左が乗り込めば、領民と無益な軋轢が生じるかもしれない、というのが理由らしい。

 ただし、このことを以って、「徳川家における代官の最初」とするのはやや無理がある。検地で定めた石高(作物の収穫量)に基づいて年貢を徴収するようになるのは、天正19年(1591)以後のいわゆる太閤検地からであって、念誓に委ねられたのは地域に限定した公事全般、すなわち治安と刑事探索、訴訟ごとの裁断および治水、防災の実務ではなかったか。

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