13.秀吉の大名鉢植えのこと

この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。

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現在の小田原城城址公園)

 念誓が長澤郷と土呂郷の差配所として使ったのは、土呂陣屋であったろう。長澤城はすでに朽ち果てて陣屋とするのは無理があった。

 土呂陣屋は三河一向一揆で焼け落ちた本宗寺(土呂御坊)の跡地に、石川与七郎(数正)が建てたもので、平時には与力(上士)と数人の手先が常駐し、門徒衆が再び蜂起したとき、防戦・鎮圧の拠点とするねらいがあった。

 与七郎が秀吉の陣営に逐電してほどなく廃されたと考えられているが、それがいつのことなのかは分かっていない。前後の事情から、与七郎逐電のあとは念誓が差配所として利用し、天正18年(1590)の秋、豊臣方の田中久兵衛(吉正)が取り壊したと考えるのが理に合っている。

 天正18年というのは、関八州に覇を唱えた小田原北条氏が滅びた年だった。

 と同時に天下統一が成った年でもあった。

 秀吉は天正16年から東北の諸大名に使者を送って

 ——挨拶に上洛せよ。

 と命じていた。

 また今回は

 ——小田原に参陣せよ。

 と命ずる書状を送りつけてあった。参陣しなければ、小田原を滅ぼしたのち兵を送って捻り潰してくれる、というのである。

 これに応じた常陸の佐竹・岩城、磐城の相馬、北陸奥の南部、南陸奥の伊達、出羽の最上・戸田・秋田といった諸大名は所領を安堵され、そうでない諸氏は所領を没収される憂き目にあった。

 秀吉はもう一つ、大きなことをやっている。

 目に見える形として徳川家の関東移封に目が行くのだが、それは象徴的な出来事といっていい。実はこのとき秀吉は、蒲生氏郷会津32万石、木村吉晴を大崎30万石に新封、伊達政宗を114万石から72万石に減封した。

 小田原に参陣しなかった葛西、白河、大崎など9家を改易(領地没収)するなどした奥州仕置と併せると、別の様相が見えてくる。それは、家康が諸大名の力を削ぐために断行した大名の鉢植え化である。依って立つところをコロコロと変えることで、大名を根無し草にするのは、秀吉の政権に始まっている。

 それは、

 ――すべての大名はおのれの家臣。

 という理屈である。

 ――生殺与奪は思いのまま。

 というのは、専制君主の考え方には違いない。

 だが、命のやり取りを是とするそれまでの常識を転換し、戦国に終止符を打ったことは否定できない。それは信長から学んだ手法でもあった。

 歴史的にはそのような解釈が可能だが、徳川家ないし松平一族にとっては、驚天動地の事態が出来したことになる。先祖代々の血と汗が染み込んだ土地を捨てて、一家をあげて見も知らぬ土地に移るというようなことは、かつて経験したことがない。

 やや細かく時系列に書く。

 小田原で最後の戦闘が行われたのは7月2日、北条5代当主氏直が城を出て豊臣方羽柴主玄(瀧川雄利)の陣営に降ったのは5日、前当主の北条氏政八王子城北条氏照が自刃したのは11日だった。

 7月13日、秀吉は小田原城内で家康と織田信雄の国替えを公表し、16日に宇都宮に向けて小田原を後にした。鎌倉を経て19日江戸城に入り、宇都宮城に着いたのは26日だった。

 家康が江戸城に入ったのは8月1日とされるが、実際は7月17日だった。秀吉本陣を迎えるためである。20日秀吉本陣の出立を見送ったのち、当座の差配を下して宇都宮に向かい、戻ったのが8月1日というわけだった。

 この時期、秀吉も家康も「超」が付く繁多である。豊臣、徳川の事務方(官僚)が筆と算盤をフルに回転させ、異論反論を封じる筋立てと理屈を編み出し、役夫と馬匹を動かした。現代風に言えば、国家規模の巨大プロジェクトである。

 家康の関東移封について公表されたのが7月13日、家康本陣の江戸入城がその4日後というのは、よほど用意周到だったことを示している。奥州仕置と同じように、その準備が本格化したのは、足利義昭征夷大将軍の職を朝廷に返上した天正十六年(1588)以後と考えていい。

 秀吉が考えたのは、家康を関東に移し、家康が退去した三・遠・駿・甲・信を信雄に与えることだったらしい。信雄が尾張固執して提案を拒否したので、秀吉の構想は半分しか成就しなかった。信雄が移封を受諾していたら、天下統一の絵図はまた違ったものになったかもしれない。

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