14.去る者と止まる者のこと

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江戸時代の神田上水:水道橋あたり(広重画)

 歩くしか交通の手段がなかった時代であるにもかかわらず、天下統一達成に向かう回天は早い。

 秀吉が小田原征伐を発令したのは天正17年(1589)の12月、家康が誓書を認めて事実上の嗣子である3男の長丸(秀忠)12歳を上洛させたのは翌天正18年1月だった。秀吉の質としたのである。ただ、秀吉は

 ——そこまで致さぬとも……。

 と、長丸を送り返している。

 家康はそれと併せて、箱根越えの先遣隊を発出させ、2月1日には3万の兵を率いて駿府城を出馬した。だけでなく家康は、豊臣方軍兵が徳川領内を円滑に通過できるよう、河川に船橋を連ね、往来を整えた。休憩・野営のための水利、城塞の開放、米飯の供与、領民と軍兵の諍いを防止する警固などを担ったのは、残留した老齢者たちである。

 折から土呂の茶園は繁忙期を迎えていた。

 この当時の茶は粉末にした茶葉を白湯で撹拌する抹茶であって、茶園は粉末にする一つ手前の碾茶(てんちゃ)を製造して出荷する。

 碾茶とは茶葉を蒸して乾燥させたもので、一見すると深緑色の岩海苔のようなものである。摘採(茶摘み)の前ひと月ほど、つまり桜が散るのを合図に藁の菰で茶木を覆う作業を始めなければならない。

 豊臣の軍兵が岡崎を通過したのは摘採の真っ盛りである。額田屋の手代(実は右馬允家代々の郎党)や奉公人は、製茶の作業と豊臣方軍兵の対応に忙殺された。その裏で関東移封の計画が進んでいるなどとは、もちろん伝わっていない。

 関東移封の情報が流れてきたのは、6月の末ごろではなかったか。

 ——お屋形さま(家康)に近習しているはずの松平又八(家忠)が小田原から駿府に駆け戻ってきて、残留の者どもに引っ越しの準備を指示し始めた。

 という。

 引っ越しと言っても、現今のアパート、戸建住居を引き払うのとはわけが違う。城には武具、火薬、宝物、衣装、寝具、各種大量の文書が溜まっている。不要な物、見られて困る物は焼き捨てよということで、城の内外に幾筋もの煙が立ち上った。

 岡崎城下も同じである。

 そのうち念誓のところにも、本多城代の名で

 ——急ぎ武州江戸へ立ち退け。

 と指令が回ってきた。どのような事情か、いつまでにか、江戸のどこへかなど、委細はない。

 念誓は戸惑いつつ、しかし密かに

 ――なにを言ってやがる。

 と憤慨したかもしれない。

 自分は宗家から土呂・長澤2郷2400石の差配を任されているが、すでに家督は嫡男の親重に譲っている。つまり隠居の身ではないか。徳川の禄は食んでおらぬ。しかも額田屋の仕事がある。当時の専売事業である茶園と酒造を念誓は握っている。手代や奉公人を食わせるに困ることはないであろう。

 皆が立ち退くのであればこそ、松平の者が三河にとどまらずして何の侍ぞ。

 ――お屋形さまは必ずや三河に戻ってくる。

 そのようなことが本当になるとすれば、徳川が天下を取るほかになく、天正18年野夏の時点では、年寄りの強がりに過ぎない。

  このとき念誓は57歳であって、当時の平均寿命といったところだろうか。もう一旗、というには、残されている時はあまりに短い。

 ――住み慣れたここで余生を……

 が本音だったのに違いない。

 病弱のために家督を念誓に譲った実兄・清三郎(正次)は、3年前、家康の声がかりで同じ旗本の大河内久綱の次男・長四郎(正綱)に家督を譲っている。長四郎は旗本駿府衆の末席に列しているので、養父となった兄は長四郎に帯動し、三河を去るであろう。

 右馬允家はどうかというと、家督を継いだ長男・親重、実弟で後見人の清右衛門(親成)は、旗本岡崎衆(三河衆)の一員として2月に出陣していた。念誓が上林竹庵を奉行とする茶壷道中を小田原城下寿の家康本陣に出立させた6月の時点では、江戸城東詰の堀川陣屋にいた。

 江戸城に立て籠もる北条方城代・河村秀重の軍兵と戦っていたのではない。家康の命を受けた大久保藤五郎(忠行)の指揮下で、来る日も来る日も土を掘り、その土を畚で運んで新たな堤を築いていた。侍が町造りに従事するのは決して珍しいことではなかったにせよ、戦う相手を目の前にして泥に塗れる毎日とは、三河衆の心中が思いやられる。

 当時の地形はすでに失われているが、現在の地図でいえば東京都文京区の小石川目白台下から飯田橋に向かう水の流れを作り、それをさらに南に流すのである。まずは堀川陣屋に駐屯する三河衆の生活に必要な水を確保しなければならない。

 それがのちの神田上水となり、さらに現在の日本橋川の前身となったこと、三河衆が住み着いたことで、昭和の初めまで神田に「三河町」という地名があったことはあまり知られていない。

 結局、念誓は土呂にとどまることを決意した。

 

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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