15.代官が幕府官僚の始めのこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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伊奈熊蔵忠次の像(水戸市

 この史譚は、藤沢周平さんの時代小説『三屋清左衛門残日録』からスタートした。

 ●その舞台「海坂藩」は庄内藩山形県鶴岡市)がモデル。

 ●藩主をめぐる陰謀は庄内藩で起こった長門守一件が下敷き。

 ●「清左衛門」の名はのちの出羽最上代官・松平清左衛門(親正)。

 ではないか——ということで、右馬允松平家の由来を探ってきた。しかし天正18年の現在、清左衛門(親正)が生まれるまで、まだ5年の時間がある。

 さて、家康が江戸城に本拠を移したのは、秀吉の強い要望(命令)だった、というのが通説ないし俗説である。今回はそのことについて書く。

 最近の研究によると、家康は同年5月27日、箱根湯本の早雲寺に設けられた豊臣総本陣で秀吉と面談して、関東移封に合意した。北条氏直が降伏・開城を申し入れる40日ほど前に、戦後処理が話し合われていたことになる。

 このとき両陣営の幹部の多くは、

 ――徳川家の本城は小田原。

 と予想した。

 小田原は関東最大の都市であって、相模湾を望む港には南蛮船も寄航し、城下には鉄砲鍛冶もいればクルスを掲げた教会もある。町家までぐるりと囲んだ総曲輪は、大坂城をも上回る。難攻不落である。

 ところが家康は最初、浦和に城を築く考えだったという。南にまっすぐ行けば鎌倉である。のちの中山道と奥州道が交錯し、信濃、越後にも通じる。加えて利根川の水利もある。

 ――だが、海が遠い。

 と言ったのは本多弥八郎(正信)である。

 これが決め手となった。弥生八郎は、物資輸送の力が優劣を決める、と見抜いていた。家康に歯向かって一向一揆の将として戦ったとき、糧秣と武器の供給がいかに重要かを学んだのであろう。

 また弥八郎は7月13日、小田原城に徳川家旗本の筆頭格である大久保七郎右衛門(忠世)を入れることを、進言したとも言われる。しかも進言した相手が家康にでなく、秀吉にだったというところが面白い。

 さらに弥八郎は伊奈熊蔵(忠次)に小田原城米蔵の管理を任せ、併せて徳川家の諸将の知行割を担当させた。熊蔵は元は武田の士分で、弥八郎は武田家滅亡後の甲斐再興について共同で計画したことがある。

 熊蔵は秀吉からも一目置かれていて、熊蔵が作り平八郎が了承した案を秀吉の口から家康に伝えることで、のちに猜疑を受けないようにしたのだと言われている。

 7月21日、江戸城で家康の出迎えを受けた秀吉は、その夜、城下平河にあった報恩寺で家康と2人きりで談じこんだ。徳川諸将の知行割、欧州仕置のことが語られたのは言うまでもない。双方の思惑はともあれ、秀吉の天下統一は家康の協力なくしては到底達することができなかった。

 熊蔵が作った知行割は、関八州250万石のうち150万石を諸将に分割し、100万石を徳川家直轄とするものだった。小田原北条氏が敷いていた四公六民の租税率を適用したのである。これにより41人の武将が城持ち大名となった。

 かたちの上では徳川家康という大名になり変わって知行地を統治するのだが、城持ちであれば知行地は「不入の権」(治外法権)となる。分離独立と言ってもいい。徳川という大きな空間に41の小宇宙ができたわけだった。

 家康の直轄領100万石は青山藤右衛門(忠成)、大久保藤十郎長安)、伊奈熊蔵(忠次)、長谷川七左衛門(長綱)、彦坂小刑部(元正)、向井兵庫助(正綱)、成瀬正一(一斎)、日下部兵右衛門(定好)らが奉行となって、公事と税務を受け持ることになった。

 関東移封・江戸入府から関ヶ原合戦までの10年間、徳川家の直轄地は「蔵入地」と呼ばれ、奉行が地域ごとに年貢を徴収し、徳川家の財政を支えるかたちだった。旗本に知行地が与えられ、あるいは役料が廩米(蔵米)で支給されるようになるのは、2代将軍秀忠の慶長十年(1605)ごろからである。

 また、初期の奉行のうち青山藤右衛門は江戸城下の治安を所管し、大久保藤十郎、伊奈熊蔵、長谷川七左衛門は勘定方代官頭となった。江戸幕府の官僚機構は代官から始まったと言えなくもない。

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