16.貫で流通した永楽銭のこと

筆者から:この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。小説らしからぬ創作ですので、すべてを事実と誤解なきようにお願いします。

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銭の貫;市場では97文か98文が「100文」だった

 武州江戸に退転する動きが始まり、岡崎城下はにわかにざわつきが大きくなった。むろんそれは長澤も挙母も浜松も駿府も変わらない。

 組頭が声を枯らして

 ――無用な物は捨てよ。焼き払え。

 と喚き回るほどに、菰包みの大八車が店の前に列をなした。

 菰の下には櫃や葛籠が積まれている。江戸まで持っていけないのなら銭に、ということで、古物商の店先は武具や漆器、古着であふれかえった。土呂の三八市は近在で最も大きい取引の場なので、売る者ばかりでなく、買う者も引きを切らない。大八車は吉良からも長澤からもやってくる。

 同じように、商人は貸金や掛売りの回収に走った。

 商取引に用いられたのは勘合船が持ち帰った明の永楽銭だったが、そもそも流通量が少なかった。ゆえに

 ――銭を持っている

 というだけで特段の注目を浴びた。

 念誓の家には茶園と酒蔵で稼いだ銭が蓄えられている。

 例えば、年に1度、江戸城まで茶を届ける。乾燥した茶葉(碾茶:これを粉末にすると抹茶になる)を大きな壺に詰め、それを駕籠に乗せて男衆2人が前後を担ぐ。家康は褒美として、重量1貫当たり1貫文を持して帰した。銭に直すと1貫文は貫銭10本である。1壺(1駕籠)はおおむね20貫、それが4駕籠だから、茶壺道中のごと額田屋に貫銭800本が入ってくる。

 ——何かのとき、土呂に銭を溜め置く。

 お屋形さまの深謀遠慮、と念誓は考えている。

 とまれ念誓は俄か分限になった。ばかりでなく、このころの念誓の家は営みを蔵元、荷役にも広げていて、物を預かり運ぶ手立てを備えていた。

 目先が利く手代頭の槇六郎左衛門が、

 ——なれば立て替えを。

 と言った。手持ちがない商人や買い手に銭を貸し、後日返してもらう。その手数料を取る。

 銭は1枚を「文」といい、立て替えでは100文当たり2文か3文を利息とした。100文を借りたいなら、両替商(この場合は念誓の家)に、合計102文か103文を支払うことになる。

 市場では銭97文または98文を100文に見立てて、紐や細く削った木材でひとまとめにした。大きな商売では銭を箱に入れて、その箱を大八車に乗せて運ぶ。運びやすく、また数えやすくするために、中央の穴に紐や細木を通したのである。銭を貫くので、紐や細木を「貫」と呼ぶこともあった。

 のちに「貫」は重さを示す単位と重なって、銭1千枚の重さ=3750gが決まりとなった。現在の5円、50円の硬貨に穴が空いているのはその名残にほかならない。

 ちなみに天正18年(1590)当時、銭1貫文(1千枚)は玄米5石5斗、約825kgの価値に相当した。こんにちの平均的な流通米10kg=4千円前後とすれば、銭1貫文はざっくり30万円ということになる。

 小田原戦役のとき、武蔵忍城を水攻めした石田治部少(三成)は堤の工事に8千貫を費やした。現在でいえば24億円だが、それは玄米を基準で換算した額に過ぎない。食と住を与えるだけで人を雇うことができた時代、庶民は米を口にすることが滅多になかった時代であることを考えれば、銭の価値はこの数十倍であっておかしくない。

 ともあれ、天正18年の春から夏にかけて、岡崎の城下は先々の不安のために浮ついた空気が満ちていた。そういうなかで

 ――わしは居残る。

 と思い定めた念誓は落ち着いている。主が腹を決めているので、家人も奉公人も動揺することがない。市が立つたびに、念誓の屋敷に商人が訪ねてくる。人が来れば風聞も入ってくる。そのなかで念誓が耳を動かしたのは、

 ――内府(内大臣)がお入りになるそうで。

 という情報だった。

 岡崎の城に、ではない。

 家康が治めた東海信甲の5か國の太守として、織田内府(信雄)が入ることが決まった、という。

 ――ほう。

 それが事実なら、面白いことになる。

 というのは、

 ――お屋形さま(家康)は内府を立てて秀吉と覇を競うおつもりではないか。

 と見ているからである。

 天正12年の戦役(1584年3~11月の小牧・長久手の合戦)では、諸戦で有利に展開していながら、秀吉の恫喝と讒言で信雄が戦線から離脱してしまった。それがために、家康は大義名分を失った。返す返すも念誓には、信雄に参謀を送り込めなかったことが恨めしい。

 不用意な単独講話で信雄は伊勢半国と伊賀を失い、所領は尾張60万石に限られた。その信雄を三遠駿信甲5か國150万石に移封というのは、なるほど織田家発祥の故地を秀吉に明け渡すことになって、信雄は受け入れ難いかもしれない。だが家康も三河を明け渡すのである。

 その代わり、織田と徳川の所領は境を接し、合わせた石高は400万石となる。信雄は総大将の器ではないが、大義として担ぐには名実ともに相応しい。

 ――関八州で力を矯め、雌伏十年の暁に徳川が閧挙げれば、三河に居残る我らも旗立てて、助勢仕ろうぞ。

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