この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。ご一緒に想像しながらお楽しみください。
念誓が「雌伏十年……」と呟いたのは、単なる常套句であって、これより10年のちに起こった関ヶ原合戦を見通していたわけではない。
ではないが、最近の念誓は気がつくと絵空事の先読みに没入していることがある。
痩せても枯れても「松平」である。宗家の先代忠広に御目見得し、元家康の旗本馬廻として戦場を駆け巡り、三河衆の宿老として岡崎城に詰め、長澤の城代でもあった。のち織田信忠の御伽衆として岐阜、安土を詣で、織田の諸将ばかりでなく、茶の宗匠や茶師、能楽、絵師、陶芸師とも面識がある。
加えてこの10年、念誓が思い至るのは、出家して願人となったことの幸いである。僧として修行をしたわけでもなく、経読みもはかばかしくはないのだが、我を捨てて声高に願文を唱えているうち、民だみが慕ってくるようになった。土を耕して作物を得る百姓とは一線を画した「道者」が、こんにちの念誓を支えている。
そのような自身の経験と知識、様ざまな伝手で入ってくる情報を組み合わせると、何やら見えてくるものがある。もやもやしたまま頭のなかに置いておくのは性分に合わないのだ。
ただし、念誓が
――面白くなる。
と期待した織田内大臣信雄の東海甲信移封はかなわなかった。
信雄は尾張を明け渡すことを嫌って秀吉の命令に従わなかった。それは小田原城内で秀吉が諸将を前に、家康の関東移封と併せて公表した翌日、7月14日だったという。
即断で断ったといっていい。
怒った秀吉は、
――ひっとらえてしまえ!
と口走り、それを知った家康は7月26日、江戸城から秀吉をあとを追いかけて宇都宮城で談合した。奥州仕置の最中、清洲に向けて軍を起こすのは無謀だし、織田家ゆかりの諸大名が黙ってはおるまい。
――ここは穏便に……。
と宥め透かし、死罪となっていたかもしれないところ、下野烏山城2万石の減封にとどめることができた。ちなみに信雄は大阪城に豊臣秀頼が滅んだのち、家康から大和国内に5万石を知行され、寛永7年(1630)、京都北野で没した。
秀吉がそこまで強硬に信雄の処分にこだわったのは、天下人の権威を諸大名諸将の見せつけるためだった。そのためには旧の主筋で、現職の内大臣である信雄が最も相応しかった。自分に逆らったらどういうことになるか、である。
信雄の移封命令拒否で、秀吉の構想は大きな修正に迫られた。清洲(尾張)50万石は予定通り豊臣秀次への加増として与えられたが、東海甲信150万石は細かく分けて家臣を封じなければならない。
家臣の重軽を評価し、石高を按配する。にわかなことなので、織田家ゆかりの将を鉢植えのごとく動かせば、反発が出る。秀吉子飼いの家臣に対象を限って知行割が定まったのは、徳川家の関東異封から2か月後だった。
その結果、駿府城には中村一氏、掛川城には山内一豊、浜松城には堀尾吉晴、岡崎城には田中吉政が入り、甲州は豊臣秀勝(秀吉の甥)、信州の松本城は石川数正、小諸城は仙石秀久、飯田城は毛利秀頼にそれぞれ与えられた。
念誓の関心は、甲信の知行割にはなく、三遠駿の東海3国の力関係である。駿府の中村一氏、掛川の山内一豊は秀吉の子飼いだが、浜松の堀尾吉晴、岡崎の田中吉政は吉次付の老職だった。
――いずれ割れるか。
が念誓の新しい関心事になった。
こうした前後の事情から、信雄の異封は家康が秀吉に持ちかけたのではないか、とする見立てがある。
――東海甲信を捨てて関東に移れ、と命ずるのであれば、弓矢に及ぶご覚悟を持たれよ。
と家康が秀吉の耳元で囁いた、とする。小牧・長久手で苦しめられ、追い詰められた恐怖心が秀吉にはある。
――されど、いずれ清洲は三法師どのに明け渡さなければならぬ。内府(信雄)どのを東海甲信に、ということであれば、わが家臣どもも収まるでありましょう。
だが家康は、信雄が秀吉の命に服するとは考えていなかった。秀吉と信雄と軍を起こすとなれば天下の趨勢はたちまち流動化し、改易となれば東海甲信に秀吉の家臣が分散する。
むろん、信雄が受諾すれば、徳・織同盟の石高は合わせて400万石となって、秀吉に対抗できる。どちらに転んでも徳川に損はない。