18.赤坂陣屋と中泉御殿のこと

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中泉御殿跡(御殿遺跡公園:磐田市

 徳川家が関八州に転出したあと、岡崎城には田中久兵衛吉政が5万7400石で入った。田中のほか吉田城は池田輝政が15万2千石、浜松城堀尾吉晴が12万石、掛川城山内一豊が5万1千石、駿府城中村一氏が14万石という具合だった。

 慶長3年の太閤検地による石高を見ると、三河は29万石余、遠江は25万5千石余、駿河は15万石である。その7割5分が豊臣家の家臣に配分されたかたちだが、彼らがどうにもこうにも手出しができない土地があった。

 遠江泉村1千石である。

 現在の地名でいうと磐田市中泉であって、浜松城の東、天竜川の向こう岸、かつての袋井久野城の視野に入る。天正14年(1586)か同15年か、家康が鷹狩りを営むときの休憩場所とした。家康が休む御殿と、供の武者や狩子などが詰める陣屋があった。

 それを秀吉が家康の「在京賄料地」として朱印状を与えたのは、家康が進んで関八州に転出する条件を整えようとしたのだろう。江戸と京、大阪を行き来する家康に格別の便宜を図ったと言えなくもない。

 いま東京の日本橋から磐田市中泉まで、一般道で距離を計ると238km、中泉から京都の三条大橋までは237kmである。偶然だろうけれど、真半分のところに徳川家の飛び地があったわけだった。徳川家の所領ということは、つまり治外法権である。

 中泉御殿は徳川3代将軍家光の寛文10年(1670)に廃止となり、磐田市市内の2つの寺に、御殿の表門と裏門が残っている。創建当時のままであれば重要文化財クラスの評価があったかもしれないが、市の調査によると17世紀中葉ないし後期の「薬医門」という様式を継承した再建であるらしい。

 また1992・93の2年間に渡って行われた中泉御殿発掘調査で、敷地はおよそ3万3千平米(1万坪)、その外周は水を湛えた堀と土塁で囲まれていたことが判明した。

 ――大池を背後にした広大な敷地は、まさしく城郭構えであることが分かる。

 と報告書は言う。

 高山陣屋の敷地が2900平米弱、川越城本丸御殿が3400平米弱だから、中泉御殿の規模が分かろうというものだ。

 中泉御殿の脇には建屋を維持管理する吏士の常駐所があって、「中泉陣屋」と称された。まだ戦国の余韻が強かった時代なので、家康の移動は実戦部隊が戦場に向かうのと同じ装備と人数が伴った。江戸幕藩体制で通例化した参勤交代の大名行列は、国許と江戸界隈における本御行列はきらびやかな大人数、道中の行列は本行列の半分か3分の1だったといわれるが、家康の行列はそうではなかった。

 騎馬、歩行の家士隊、弓・槍・鉄砲の足軽隊、旗持ち、道具持ちなど3千人、4千人が同道した。その人数が整然と歩き続けること1刻(2時間)を目安に休憩を取る。飯を炊き汁を作り寝泊まりする。戦いのない平穏なときとなれば20km、40kmおきに立場・継場ができ、御殿の周辺には門前町ができた。

 御殿の設計・施工を指揮した奉行が誰だったか、正確なところは伝わっていない。天正14・15年当時の状況からすると、三遠奉行だった伊奈熊蔵忠次が頭であった可能性が高い。しかし伊奈忠次天正18年に関東総奉行として江戸に転出している。

 しかも忠次のころの中泉は徳川家のお膝元であって、外敵への備えはほぼ不要だった。休息のときも備えを怠らないのが総大将の心得だったとして、堀深く土塁高く白壁の土塀に武者走りを備えたのは、天正19年以後のことではあるまいか。

 ――中泉御殿と中泉陣屋の出張陣屋が赤坂陣屋である。

 といわれる。

 赤坂陣屋は豊川市のはずれにあって、そこは中泉から60km以上離れている。江戸時代の東海道53次では、日本橋から出て36番目、赤坂宿のほど近くである。徳川家が関東に転出する前であれば、そのような遠方に脇陣屋を設けるのは理屈に合わない。はるか近くに浜松城曳馬城)がある。

 赤坂陣屋が設けられたのは慶長6年(1601)だというのだが、そこから西北西半里に長澤城があることに気がつく。長澤とは、天正18年の夏まで、念誓が代官として民生を差配していた郷である。

 関ヶ原合戦のあと、念誓の甥で右馬允家の家督を預かった松平清四郎親成が長澤代官となり、中泉代官を兼務した。だけでなく、念誓の2男清左衛門親正、3男市左衛門周正は赤坂陣屋と中泉陣屋の代官を受け継いだ。

 長澤(赤坂)と中泉は右馬允家で結びついている。

 多少の無理を承知で空想を逞しくすれば、念誓が

 ――額田屋は土呂に止まる。

 と徳川家の岡崎城代・本多作左衛門に伝えたとき、長澤城補強と中泉御殿改修の談合が持たれたのではなかったか。右馬允家は長澤松平家の分家であり、贔屓とも見える家康の長澤家(右馬允家)重用は、肩衝茶入「初花」の恩賞だったのかもしれない。

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