この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。想像をお楽しみください。
念誓の下には、世の動きにかかる様ざまな情報が入ってくる。まずは年に1度、茶壷道中で江戸に出た額田屋の者の土産話がある。あるいは岡崎衆の知己や松平の眷属が江戸と大坂の行き帰り、挨拶に立ち寄ったり一夜の宿を求めにやってくる。さらに道を行く出家や商人との茶飲話もたいせつな情報源だった。
秀吉が「唐入り」「征明」を表明したのは天正19年(1591)の8月だった。表明と同時にその前線指揮所として肥前の名護屋に城を築く作業が始まった。縄張りは福岡城黒田孝高、普請奉行は黒田長政、加藤清正、小西行長、寺沢広高である。
翌3月、名護屋の工事が終了するのを見計らって、諸大名に総動員令が発せられた。岡崎城下に触れが回り、大村は5人、小村は3人の割で壮齢男子、町屋の商家には奉公人の数に応じて貫銭が課せられた。
天正20年の夏、朝鮮の戦いは本格化していたが、念誓においてその勝敗はどうでもよいことである。それは太閤が起こした大義なき戦役であって、念誓の関心は「お屋形さま」(家康)の動静に限られる。
玄界灘を渡って半島を北上していったのは秀吉の子飼いで、西国に知行地を持つ俄か大名が中心である。家康は秀吉の名代として、1万5千の兵を率いて九州の名護屋にいる。
――なぁに、分け与える所領がなくなったので、朝鮮を奪いに行ったまでのことよ。お屋形さまは抑えとして動かずにおわすが、それは太閤はお屋形さまに手柄を立てられては困るからじゃろ。三河侍も軽く見られたものよ。
念誓はそのように思っている。
この物語の中の人々は知らないし、知ったとしても理解できないのは、100年200年あるいは500年600年に亘る気候のうねりというものである。なぜ戦乱が起こるかといえば、食糧すなわち米麦穀物根菜葉物の成りが細くなるからで、飢えないようにするためには他者の食糧を奪うのが手っ取り早い。
応仁・文明の乱の直前、長禄年間(1457~14 60)は、中世寒冷期の底だったとされている。大和・山城が暴風に襲われ、夏は旱、冬は極端に寒かった。
その証拠に京都の公家が、
――鴨川が凍結した。
と日記に書き残している。
洛中の餓死者は8万人におよび、屍体が流れを堰き止めて鴨川があふれた、という記録もある。食糧難が一揆を生み、時の権力に対する怨嗟の声が高まった。史上の出来事は将軍、管領、守護など個人名で語られるが、庶民群衆が結集して相乗的に下克上のパワーを高めたと言えなくもない。
その寒冷な気候が天文(1532~1555)ごろに収束し、天正にいたって温暖に向かい始めた。食糧事情が落ち着き、余剰が出るようになると、社会に余裕が出る。死に物狂いの戦いは鳴りを潜め、領地の広さ、地位の高さ、高尚な趣味をめぐる権謀術策に移っていく。それが急速に起こった。
念誓が
――褒美に所領150石を与えよう。
という家康の申し出を断って茶木を栽培する許可を求めたのは、茶の湯が特権階級の専有だったことに依っている。特権階級の専有だったので、茶木の栽培、碾茶の製造、茶器や茶道具を作ることは、特権階級に属する有力者の許可が必要だった。
それとは別に、知行地とは米麦穀物根菜葉物を産する課税地であるのに対して、茶木の園地は荒地であったり、干潟や泥湿地だったりするので課税されないか、税率が極端に低い。しかも荒地干潟は取り放題である。そういう計算が念誓にはあった。
また念誓は、当時の先進地だった岐阜、安土で楽市楽座を目にしていた。菜種、大豆、木綿、青苧(麻)などが市場に山を成し、数次の加工を経て最終製品に仕上がっていく。その工程には必ず銭と蔵役(倉庫と荷役)が関与し、「あきゅうど」(商人)すべてをが差配する。
――いずれ土呂でも。
と念誓が密かにねらったが、世の中は自分の思い通りにはならないものだ。
楽市楽座は石川与七郎(数正)がいち早く導入し、三八市はいまや「東海一」の規模を誇っている。ばかりでなく与七郎は池の向かい岸、幸田村の百姓に薦めて、丘陵地に桑と綿を植えさせた。
こんにち土呂も幸田も閑静な住宅地だが、念誓のころは「菱池」という汽水湖があって、矢作川がその菱池に注いでいた。当時の幸田村は田地の乏しい寒村である。
――そのような土地に銭が落ちる。しからば一揆を起こそうという気にはなるまい。
後世の殖産振興と軌を一にしている。
石川与七郎は旗本三河衆の旗頭として、経済政策を以って一向一揆後の土呂復興を図ろうとしたわけだった。のち、信州松本8万石の領主となり、城下に幅広の道を通して物流と商業を振興した背景には、岡崎での成功がある。城下の町を潤せば人が集まり、村が豊かになれが年貢が増え、それが最大の防衛策になる、という知恵は、武断一辺倒では湧いてこない。