20.還暦前の供養と功徳のこと

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西尾城

 文禄2年(1593)、家康は九州肥前名護屋城にいる。手代頭の槙六郎左衛門が

 ――今年はいずれへ。

 と問うたのは、茶壺を江戸に送るか名護屋城に詰めている家康の許へか、という意味である。

 念誓がやや思案の末に

 ――どちらにも。

 と言ったのは、上方、中国筋、肥前あたりの様子を知りたかったからである。三河から宮に出て船で桑名に渡り、鈴鹿から歩行で堺に出る。こんにちの名阪国道と考えればいい。堺からまた船に乗って瀬戸を渡る。

 ――お屋形さまはさぞかしお喜びになるであろう。

 茶壺道中を見送った念誓が始めたのは、知己を訪ねることだった。

 年が明ければ還暦である。すなわち、天地の理を支配する十干十二支が60年で一巡する。当時の人は、おおむね還暦を過ぎると死んだ。

 ――いちど死んで生まれ変わる。

 という輪廻転生の思想が背景にある。

 念誓の場合はそれ以上に、

 ——浄清どの、浄山どのの供養。

 という意味があった。浄清は右馬允家の初代宗忠(祖父)、浄山は2代親常(父)の法名である。両人とも齢60で逝った。自分も還暦で逝くか、という思いがある。

 ——死ぬる前に……

 強い日差しの中を歩いて行くの修行であり、知己と会うのは功徳でもある。

 まずはかつての同輩がいる。かれらは墓と田畑を守るために三河に止まった。次に商いや茶の湯の付き合いがある。土呂は三と八の日に大きな市が立つ商いの町だが、地場に産する木綿や養蚕で財を成した分限者も少なくない。さらに念誓と同じ出家も少いる。

 久しぶりに顔を見て、世間話をして帰るだけだが、隠居とはいえ右馬允家の本家だし、ちょっと前までは「お代官さま」だった。姿を見つけた百姓が腰をかがめて挨拶をしてくる。汗だくで帰り着くと、下女が支度してあった桶の水を頭から浴びる。

 供は槙六郎左衛門の妻方の甥・佐原平作と決まっている。深溝や御油あるいは西尾に行くとき、いつも乗ることがない舟が面白く楽しみであるらしい。

 ――毎日のお出かけ、お疲れはありませぬか。

 と女中頭の志乃は案じる。

 志乃は5年前に病没した念誓の正妻妙女の付き人として、足助の鈴木家から右馬允家にやってきた。父は鈴木家の足軽で、合戦で命を落とした。身寄りを失った志乃は主家に拾われて、小間使いとして奉公するようになった。戦乱で孤児が出た時代、そのようなことは珍しくなかった。

 いちど家中の者に嫁いだが、今度は夫が三方ヶ原で討ち死にして、右馬允家に戻ってきた。男と女の関係が結ばれたのはその翌年である。以来、奥向きのことを取り仕切り、妙女亡きあとは念誓の身の回りの世話も勤めている。

 ――それがな、どういうわけか朝が来ると、さて今日はいずこへ出かけてやるか、と思うのだ。

 ――それはお元気な。

 ――蝋燭もな。消える直前に大きく燃えるそうな。

 念誓は飄々と笑って見せる。 

 連日、供を命じられる平作は

 ――殿さまのご用はいったい……。

 と不審そうな顔を向ける。

 ――なに、別れを告げておるのよ。

 ――お会いになるのに。

 平作に念誓の気持ちは理解できないようだった。

 ――長く生きるというのは面倒なことであるよの。

 三屋清左衛門の「残日録」ではないが、念誓は会うことができた知己の名を帳面に書き留めた。池金の加藤長兵衛、御油の山下彦四郎、田代の奥平半九郎、須洲の天野孫七、大河の長井市蔵、阿知和の松平新右衛門……という具合だった。

 みな同じ門徒で、中泉の御殿や長澤の舘の補強・拡張に取り組んでいる面々である。前触れなく訪ねるので不在ということもあれば、すでに物故していることもある。

 話題といえば、年相応にやれ足が痛いだの腰が痛いだの、嫁が勝手で助けにならないだの孫が可愛いだの、おおむね現今の現役リタイア組と変わらない。

 そういう中で

 ――久兵衛は……

 とある者は切り出した。

 岡崎城田中吉政のことだが、徳川の家中から見れば

 ――たかが秀吉の陪臣。

 である。

 ――もとはわれらと同じ百姓ではないか。

 という意識もある。

 ――しかし、よくやっている。

 総じて評判は悪くない。

 吉政が城主となって取り組んだのは、城構えの改修だった。堀を深くし、その土を持って石垣を築いた。そのために河内から山師と石工を呼び、山を開いて石を切り出した。岡崎の御影石田中吉政の功によるところが大きい。

 さらに吉政は城下の道を鍵の手に屈折させ、あるいは丁字路にして見通しを悪くした。敵が乱入したとき、どちらに迎えばいのか戸惑っているうち、物陰から弓鉄砲で狙撃される。山側に外れていた東海道を城下に引き入れたのは、攻守両面を備るとともに荷役を集め商いを盛んにする策だった。

 文禄3年夏であれば、吉政が西尾の支城を築き始めたころではなかったか。酒井重忠の居城だったのを拡張し、三の丸を建て、大手門を強化した。

 近隣の百姓は朝鮮の戦役だけでなく、城の普請にも駆り出された。ただ百姓が忌避したかといえば、必ずしもそうではなかった。普通は飯が与えられるだけだが、吉政は1日1文を支払った。

 当時の通貨は明の永楽銭で、1文で米1合が手に入った。城下の商人から徴発した貫銭が、城普請を通じて領民に渡ったことになる。それはそれで供養、功徳になるであろう。

 

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