21.三河の木綿と俄か分限のこと

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綿の実

 文禄2年(1593)の秋、ただいま額田屋の店から出た念誓に「土呂の町が商いで賑わっている要因は?」と尋ねれば、

 ――それは第一に楽市楽座の制であろう。

 という答えが返ってくるに違いない。

 ——株座が仕切ることなく、儂のような年寄りが合議して場料、諸役を決める。であればこそ、売りたい、買いたい者であれば誰でも売り買いができる。

 高札にある「をし売りをし買い、狼藉、喧嘩・口論、使入へからす」を取り仕切るのも長老会議であって、つい3年前まで代官だった念誓がその長を務めるのは誰も異存がない。

 道々、念誓の話を聞こう。

 ――第二に海の荷役であろう。陸の荷役もある。だが海があっての陸であろうよ。船が集まり伝馬(荷駄運送と駅伝伝書)があり、蔵元(倉庫業と金融業)がいて市がある。

 念誓がいう「市」とは、いうまでもなく三八市のことである。三の日は海の物が、八の日は陸と山の物が、広場のそこここに並べられた。海の物とは干魚や俵物などの海産物ばかりを意味しない。南蛮渡来のギヤマンや唐様の陶磁器もあった。なるほどギヤマンも陶磁器も海にかかわりがある。

 ——人が集まれば銭が集まる。

 市の周辺に食い物、飲み物の屋台が出る。土産物屋も古着屋も出る。現今でいえば焼きそば、ビール売り、観光地名が入ったコケシや絵葉書、Tシャツに帽子、射的場やゲームセンターといったところであろう。

 さらに前乗りした店主や売り子を泊める宿ができる。棒振りの物売り、念仏祈祷で銭を取る売僧偽官人、遊女、こそ泥、大道芸人……が、もうもうとした砂埃の中に入り乱れる。秩序というものが未整備な時代であれば、我欲が前面に出る。いざこざは尽きない。それを収めるのも念誓の手代の仕事というわけだった。

 海と陸の荷役がここで集積され、取引きののち、再び海と陸を経て運ばれていった。海運の拠点となったのは、現在の幸田町の大半が「菱池」という汽水湖で、三ケ根あたりで三河湾とつながっていたことによる。

 この史譚の100年ほど前、明応7年(1498)9月のこと、というから念誓の祖父弥三郎宗忠の時代である。ここに最大マグニチュド8.4と推定される超巨大地震が発生した。震央は東海沖で、紀伊から房総にかけての太平洋岸に津波が押し寄せた。浜名湖が海とつながったのはこのときである。

 菱池が汽水湖になったのがそのときかどうかは、記録が残っていない。湾との連絡は運河のような川だったのかもしれないが、震度7の激震と高10m近い津波のあと、大船が乗り込めるほどになっていた。

 太平洋側を陸地伝いに航行する海運路(江戸期に入って盛んになった菱垣廻船の原型)のことは別稿に譲るとして、土呂はつまり三河湾に口を開いた銚子港(菱池)のどん詰まりに位置していた。

 池を取り囲む丘陵地は水田には向かないが、日当たりと風通しがよく、古くから木綿の栽培が行われていた。延暦18年(799)、三河国の幡豆に漂着した崑崙人が木綿の種をもたらした、という言い伝えがある。

 漂着した、というのだから航海中に嵐にあったか座礁したか、難所として知られる遠州灘ならではなのだが、真偽のほどは定かでない。文字としては永正7年(1510)、興福寺の大乗院が年貢180文相当の「三川木綿」を徴収したとあるのが最も古い記録だそうな。

 岡崎城主松平三郎信康(家康の嫡男)が粛清されたあと、岡崎城の城代となった石川与七郎数正が、三河一向一揆で焼け野原となった土呂の町を復興するために、木綿の栽培を奨励した。そのこともすでに書いた。

 元亀・天正のころ、東海地方は大きな戦乱がなかったし、飢餓で死人が出るような寒冷な時期は終わっていた。明から輸入された銅銭(永楽通宝)が流通し、商品取引が盛んになった。

 ――そうさ、与七郎どのはよい仕事をなされた。

 念誓は言うであろう。

 木綿はまず、油の原料として重宝された。実の中心にある種を絞って油を採る。菜種と並んで貴重な食品であり燃料とされ、その搾りかすは家畜の飼料として取引きされた。

 油商にとって重要なのは種であって、そのまわりの白い繊維は不要だった。油商に勤めていた手代が繊維を集めて糸や綿を作ることに成功した。中流階級の民の衣服が麻から木綿に変わり、有徳人や分限者(富裕者)は木綿の布で綿をくるんだ蒲団、掻巻を買い求めた。

 ――与七郎どのが楽市楽座とし、それをこの念誓が代官として差配した。そのようなことにしてくれ。

 念誓が訪ね歩いた分限者の中には、その木綿で財を成した俄か分限もいた。俄か分限とは、成金、成り上がり者のことだが、現今と比べればまだまだ実業に軸足を置いていた。

 多くは綿の木を育て、夏が過ぎるころに実を採って問屋に売る生産農家だった。上流階級で流行っている茶の湯連歌の「風流」を競って嗜んだのは、いかにも俄か分限らしい。

 土呂を中心に、幸田、美合、萱園、藤川、高富といった郷村に茶の湯連歌の会があって、彼らの多くが念誓に指導を求めたのは肩衝茶入「初花」の手柄に依っている。上林竹庵の伝手で、京や堺から茶師、連歌師が招かれることもあった。

 ——儂が望むのはな、土呂を東海の堺にすることよ。

 歳が明ければ還暦(60歳)とは思えない。

 

 

 

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