22.守護使不入と在地領主のこと

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戦国乱世でも守護使不入を堅持した鶴岡八幡宮鎌倉市

 念誓が還暦を前に知己めぐりを始めたのは、古くからの昵懇者にそれとなく今生の別れをしておきたい、という思いからだった。そのうち念誓が考えるようになったのは、

 ――あとつぎ。

 ということである。

 右馬允の家督は弟親成を後見として、長男の清蔵親重に渡している。過日、親成から手紙があって、

 ――親重どのはすでに35歳を過ぎ、旗本三河衆の組頭として一人前の働きをしている。自分も55歳なので、嫡男清四郎重忠の立身に専念した。ついては後見役を降りることを許してもらえないか。

 という。

 現代の理解では、親重と親忠は従兄弟の関係つまり両者の立ち位置は横並びだが、封建の社会ではそうはいかない。本家の嫡男に分家の男子が家臣として仕えるのが通例で、これがときとして家督をめぐる争いごとを引き起こす。

 「親忠の立身」とは、右馬允とは別の家を立てる、という意味であろう。改めて旗本江戸衆として徳川宗家に仕えるからには、親重の手下から寄騎・同心を何人か付けてやらねばならぬ。

 すでに話はまとまっているに違いない。

 ――いまさら自分がしゃしゃり出ることもあるまい。

 と念誓は考え、「よきように計らう可し」と返事をした。

 周囲の関心が高いのは、念誓が額田屋の身代を誰に譲ろうと考えているか、である。額田屋の家業は茶園、製茶、酒造、蔵元、伝馬と構えが広い。

 自分に適う者はおらぬ、という自負がある。

 ――となれば、六郎か。

 ひそかに念誓は思っている。衆目の一致するところに落とすのが、最もよい答えなのだ。

 槇六郎左衛門は岡崎を出奔したとき、念誓に付き従った寄騎である。岐阜城時代に三浦家の息女・志乃を嫁取りし、息子ができた。齢は44になる。親成・親重についていれば武士でいられたものを、

 ――お仕えつかまつる。

 と、刀槍を茶木の鋏に持ち代えた。もともと算盤に強く人使いが上手かった。いまでは頼もしい手代頭として額田屋を支えている。

 最も悩ましいのは市の座長である。念誓は右馬允家、肩衝茶入の手柄、貞宗の名刀、諸役免除の黒印状、元代官で額田屋の主人と、いくつもの抑えを備えている。別の見方をすると、念誓は所領・領民を持たない新しい型、すなわち利権型の在郷領主として、土呂界隈に君臨しているとも言える。

 商業利権に軸足を置く在郷領主の形成は、天正18年(1590)8月に豊臣秀吉が発した「刀狩令」によって加速されたのかもしれない。三河において刀狩令はあまり実効を発揮しなかったが、農民が表立って武器を帯びることができなくなった。農民を出自とするか、武家由来かによって、商家・事業家の立ち位置が変わった。

 市に出入りする商人や猥雑な有象無象は額田屋の武威をもって何とかなるとして、城の吏士が使入(市場への介入)することを阻止しなければならない。守護使不入こそが楽市楽座の鉄則であり、念誓が利権型在郷領主であり続ける裏付けとなる。

 守護使不入のそもそもは、守護もしくはその代理人が私有地である荘園や寺社領に入り込み、農地の面積や物実りに応じて段銭(年貢)を課すことを禁じることをいう。室町将軍家が守護大名と対抗するため、農地を実効支配する地頭の連合と組んだ。実権を持たない室町将軍が定めた禁令が効力を持ったのは、それだけ地頭の力が強かったということだ。

 それに対して守護大名は、段銭の払いの渋る荘園や寺社領に対して、与太者を送り込んで強引に取り立てたり、嫌がらせで狼藉を働き青田刈りをやったりした。室町はそれを禁止する令を追加して、使不入の権利が強化された。実際、鎌倉の鶴岡八幡宮は戦国乱世でも守護使不入を堅持した。これがために市内大町の市は大いに繁盛した。

 戦国の下克上は、守護に対しては使不入の自治ないし治外法権を主張し、領民に対しては使不入を否定するという矛盾を孕んでいた。加賀一国が一向一揆で使不入となり、堺、博多、長崎といった商業都市自治権を主張したのは、そのような事情に依っている。

 さて、三八市のことである。

 自分がいなくなっても 使不入の鉄則を堅持するには、どうすればいいか、と念誓は考える。

 ――揉めごと、諍いごとは六郎が収めるであろう。

 ただ、5年10年の秩序規律となると、これは合議で決めていくしかない。しかし利で動くのが商人であれば、城の吏士と結託する者が出ない保証はない。

 ――となれば……

 よほど我欲が強く、市場を占有するほどの財と武力を有する者か。

 我欲を捨てて合議をまとめる人物か。

 いずれにせよ六郎左衛門と同心して動ける者でなければならぬ。

 実際、念誓は茶園を開いてからこのかた、戦国の習わしそのままに、これと思う商家や事業家を配下につけてきた。その方法は、銭の貸借りであったり、取引条件であったり、三八市への参加認可状であったりした。ときに脅し、ときに共通の利益を掲げるなど、様ざまな手を弄している。

 よくよく考えれば、この時代の利権型在郷領主というものは、現今でいう暴力団まがいの政治屋のようなものだったかもしれない。

 

 

 

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