23.前渡し金は銭50貫文のこと

f:id:itkisyakai:20210724090718j:plain

鎧下着:白平絹地経文日輪仏像模様(東京国立博物館

 念誓がかねてから目を付けていたのは、神部甚介という者である。特段に親しくはないが、市場で顔を合わせれば、時候の挨拶を交わし戯言で笑うぐらいはする。

 かつて大草松平家が支配していた大草郷、その菱池のほとりに館を構え、後背の丘陵が綿木の栽園になっている。元は大草家に仕えていた半農半武の郷士で、先代の甚兵衛のときから綿を始めた。甚介はその2代目、歳は40半ばである。

 綿木を栽培するだけでなく、種を油商に出荷した残りの繊維をほぐして糸に撚り、布に織って問屋に出している。田村の家が糸車や機織りを用意し、女衆を集めて共同で作業をさせる。農家にとっては農閑期の手仕事が銭になるので、田村の家はありがたい存在と言っていい。 

 ――大草の甚介とやら、なかなかやる。

 と念誓は思っていた。

 念誓が供回りの佐原平作に、

 ――折り入って談合したきこと、これ有り。

 と口上させると、日をあけず甚介が額田屋を訪ねてきた。念誓には、下手に断ると何をされるかわからない不気味さがあったに違いない。

 型通りの時候の挨拶が終わって念誓が切り出したのは、

 ――三河の木綿を徳川家に。

 ということである。

 ——江戸に運んで売れるものでありましょうか。

 甚介の反応は予想した通りだった。

 ——やはり上方ではありますまいか。 

 三河木綿は天文年間以後、中流庶民の衣服や分限者の寝具、防寒着の素材として全国に知られるようになった。購買力があるのは京、伏見、大阪である。ちなみに当時の人口は、京が20万人、伏見が5万人、大阪が15万人ほど、江戸はやっと2万か3万でしかない。

 対して念誓は言った。

 ――いくさの備えでござる。

 ――いくさの?

 ――敵を攻める力にはなり申さぬが、重ねて刺子にすると、刀を防ぐことができる。

 という。

 ――しからば。

 と念誓が呼んだのは、手代の阿部喜左衛門である。元は右馬允家家中、額田屋の手代でいちばんの刀使いとされる。

 用意した木綿の刺子を松の木に縛り付けて、喜左衛門が、

 ――エイッ

 と一閃すると、刺子に大きな切口ができた。だが、松の幹に刃は届いていない。刺子が刃を防いだことになる。ということは、遠矢の力も削ぐであろう。

 ――おお。 

 合戦で深手を負うことを考えれば、安いものではないか。徳川の家中が鎧の下に刺子を着用すれば、兵を損じることが少なくなる。

 生まれ故郷の産品で、戦の備えとなるなら、お屋形さま(家康)に否やはないであろう。来年の茶壺道中に甚介を同道させてもよいし、実兄正次の伝手で大河内孫太郎(久綱:正次の養子正綱の実父)から、代官頭の伊奈熊蔵(忠治)、あるいは家康側近の本多弥八郎(正信)に話を通すか。

 関八州の徳川家中が着用するには、たいへんな量の木綿が要る。近隣から買い集めても間に合うかどうか。当座は手元の木綿でよい。いずれにせよ大きな商いになる。

 ――これは良いお話を頂戴した。

 甚介が平身低頭で謝意を述べる。

 ——さらに拙僧より、もひとつお願いごとがござる。

 三八市の合議に参加してほしいことを念誓が話し、甚介が恐縮し謙遜しつつ要請を受けたことは言うまでもない。続けて2人が話したのは、木綿の買い集めと布の織り上げは神部家、蔵元と荷役、城方への運上(納税)は額田屋という大雑把な手はずである。

 染め上げ、仕立てまで注文をうければ、さぞかし面白かろう。土呂を木綿の西陣にできるかもしれぬ。しかし江戸は遠い。刺子に仕立てるのはそれぞれに任せるのが良いであろう。歳の差は親子ほどだが、そういう話で2人が意気投合したのは疑いもない。

 この成り行きに念誓はおおいに満足した。

 商家・事業家を誘うには、何と言っても目先の利である。あくどく考えれば、これで甚介と念誓はお互いの呪縛から逃れることができなくなったし、好意的に捉えれば甚介も念誓も木綿の販売を通じて利益を共有する関係になった。

  とはいえ、優位は念誓にある。

 後日、手代頭槇六郎左衛門と甚介との間で今後の取引きの詳細がまとまった。

 次いで額田屋から、木綿買い付けの前渡金として、荷車に積んだ銭函が神部家に届けられた。函1つに貫銭(紐で永楽銭100文を通したもの)が100本、それが5函だから50貫文、米価で換算すると現在の1500万円ほどだが、庶民が白米を食べることなどできなかったし、銭を手にすることも滅多になかった時代である。価値はそれよりはるかにあった、と考えていい。

 同時に、念誓の名で甚介に申し入れがあった。

 ——ご息女を額田屋に行儀見習いさせるべし。

 というのである。

 甚介の家には、18になる娘がいる。

 その娘を、前渡しする銭の質として渡せ、という。

 戦国の気分が抜けきっていなかった当時はごく普通に行われていたことであって、なかでも女性は労働力であり、主の性欲の捌け口であり、子を産むことに価値があるとされた。

 人質の生殺与奪は相手方の一存だが、必ずしも嘆き悲しむことであったとは限らない。甚介の場合、娘が念誓の妾になるようなことになれば、あるいは念誓の子を孕みでもすれば、

 ——しめた。

 ものであったかもしれない。

 念誓の老い先は長くない。

 外戚として額田屋を我が物にできるではないか。

アクセスカウンター