24.神から紅へ、おこうのこと

この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。

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剣客商売』第3シリーズの1場面

 現時点での中心人物は松平念誓(清蔵親宅)だが、そろそろ本編の中心人物となるはずの松平清左衛門(親正)が登場する準備をしなければならない。

 松平清左衛門が生まれたのは1595年、和暦に直すと文禄4年ということになる。何月かまでは分からない。生誕地は岡崎の城下である。 

 父・松平清蔵親宅、出家して「念誓」については、推測、想像を交えて様ざま書いてきた。文禄4年、念誓は62歳だった。秀吉が拾を得たのは58歳だったことを考えると、念誓の臍下丹田の強さが知れる。

 母親についての記録はない。間違いなく言えるのは、推定される年齢から、念誓の長男・清蔵(親重)と同じ女性、すなわち念誓の正妻ではない、ということだ。

 前回までの話の成り行きから、読者の多くは

 ——さては、田村甚介の当年18歳になる娘ではないか。

 と疑っているに違いない。

 ピン・ポン! である。

 身の丈は160cm、当時でいえば5尺4寸ほど。当時の女性の平均身長は150cmほど(147cmとする説もある)と推定されていて、現代よりずいぶん低かった。当時にあってはまず大柄と言っていい。

 家業の綿畑で働いていたのでこんがりと日焼けした、美形ではないが健康的でハキハキした女性、というイメージがある。というより、清左衛門の生母はそういう女性であってほしい。

 名は「おこう」という。

 神部の「神」は「かん」の音だが、「こう」とも読む。神部家は大草郷に古くからある杉大明神(大草神社)か猿田彦三河神社の社領とかかわりがあって、ここに松平信光の5男光重が城を築いたとき、その差配を受けることになった。

 姓名や地名を女性の通称とすることは、存外珍しくはなかった。例えば、織田信長の正妻「濃(お濃の方)」は美濃、信長の妹で浅井長政に嫁いだ「市」(お市の方)は清洲城下の楽市、その娘で徳川秀忠に嫁いだ「小督」(おごう:お江)は近江もしくは江戸に由来している。

 「おこう」の由来を聞いたとき、念誓は

 ——出家のところに神がくるのか。

 と声に出して笑い、やや思案して

 ——額田屋の内では「紅」の文字を当てよ。

 と言った。額田屋に咲いた一輪の花、の意味と理解していい。

 この一言で、女中頭で槇六郎左衛門の妻・志乃は、念誓がおこうを好意的に受け入れていることを見て取った。

 ——ことによると……

 女の勘が頭の中で呟いたが、男児を産むとまで想像したかどうか。

 ともあれ、これより1年のうちに、おこうに念誓の手がついた。戦国の習わしをひきずりつつ、商業利権に軸足を置いた在地領主であれば、身近に寝起きする若い女性と関係を持つことに罪の意識があるはずもない。池波正太郎さんの時代小説『剣客商売』における秋山小兵衛を地で行ったことになる。

 一方、おこうからすると、念誓は「お代官さま」「お殿さま」であって、その身の回りを世話する仕事は武家でいう「腰元」に当たる。まして分限の家の育ちである。

 ——自分は水仕女とは違う。

 の意識が強かったであろう。処女性が格別に重視されず、儒教的な貞操観念がこんにちほど浸透していなかったことを考えに入れると、念誓が寝間に入ってきたとき、すでにおこうは受け入れる準備ができていたに違いない。

 余計な話だが、素朴な疑問として、そのとき念誓の正妻はどこで何をしていたのか、という問題がある。額田屋の内にいたとすると、念誓が44歳も歳が離れた娘と交合するのを許せたのだろうか。女の悋気は下品とされた時代であったとしても、女性としてはなかなか難しいことであったのではないか。

 念誓の正妻について考えると、長澤松平家の分枝右馬允家の嗣子(ないし当主)となれば、しかるべき家の息女であったろう。本稿では、三河国足助(豊田市)の土豪・鈴木家の息女と仮定した。足助は弥三郎宗忠が古瀬間城を築いた挙母にほど近い。古瀬間在住のころ、鈴木家と縁ができたのではあるまいか。

 天正7年(1579)の晩秋に念誓が岡崎を出奔するまでの間に、この夫婦は少なくとも1男2女を成している。1男とは長男の清蔵(親重)である。また2女のうち長女は岡崎衆のしかるべき家に、次女は青野村の名主三浦家に嫁いでいた。

 なぜ次女の嫁ぎ先が分かるかというと、ぐっとのち、清左衛門が出羽幕領14万石の代官となっらたとき、従兄弟の三浦七右衛門が手代として代官所に詰めていた記録があるためだ。七右衛門の姓から逆算して、次女は三浦家に嫁いだに違いないことが推測されるわけである。 

 文禄4年、右馬允家の家族構成は、念誓62歳、長男親重39歳、その嫡男(念誓にとって嫡孫)七郎右衛門(親朝)16歳といったところではなかったか。ついでにいえば、念誓の弟で右馬允家の家督を預かった清三郎親成は59歳、その嫡男親忠は35歳あたりが妥当であろう。

 念誓の正妻は、夫が行方を晦ました天正7年、1男2女を連れて足助の実家に戻っていた。そして念誓が肩衝茶入「初花」を家康に献じて徳川家に帰参が許された天正11年(1583)の時点では鬼籍に入っていた——とすると、話を進める上で都合がいい。

 

 

 

 

 

 

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