筆者が想像(妄想)するに、念誓がおこう(於紅)を「お手付き女中」に済ますことなく、後妻に迎えることを決意したのは、文禄3年(1594)の夏ごろではなかったか。おこうの腹に子が出来たことより、「還暦」というものが強い動機になった。
還暦とは、天地の理を支配する十干十二支が60年で一巡することをいう。その歳まで生きると、当時の人はおおむね死んだ。60年を一元となし、一元で人は改まる。その1年目、すなわち61歳が還暦である。元が3・7、21回重なると天命が革まる。1260年の期間を一蔀(ぼう)と呼ぶ。
念誓の場合、天文3年甲午の生まれなので、文禄3年甲午が還暦、明年が「一から始めるとき」に相当する。
本来は陰陽五行の『緯書』が原点だが、それが仏教の輪廻転生と結びついた。
——現世は苦界なれど、一筋に「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば浄土に行ける。
とするのが念誓が依って立つ一向宗の教義であれば、還暦こそ浄土に踏み出す第一歩であるに違いない。
内うちのことなので、婚礼の座を設けることはなかった。しかしおこうが下男や水仕女を仕切るようになり、それを見た念誓が咎めもしない様子から、額田屋の手代や奉公人たちはおよそのことを理解した。
――いやはや、殿さまもお元気なことよ。
さぞかし口元がニヤけるのを抑えられなかったことであろう。だが、おこうが殿さまの気を和ませてくれれば、家業が上向くことは疑いを得ない。
これに対しておこうが
――一つ屋の下、逃れる場所もなく……。
といえば、おこうこそ被害者というのが現代風の理解だが、「女三界に家なし」といわれた当時の女性の意識にあっては、衣食住を保証されるのであれば、吉とすべきことだった。その恵みは親子兄弟、親戚演者にも及ぶかもれないし、子を成すのが女の務めとも教えられていた。
ただ、そのように書いたのでは、おこうは意思を持たなかったことになる。
奉公に出た最初こそ、おあきは廊下の片隅で視線を落とし、
――おっかねぇ……
唇を一文字にして固まっていたのだが、ひごろ接しているうち、
――年をとった駄々っ子。
と思うようになっていた。
年の差は爺と孫なので、殿さまは自分には怒りの矛先を向けない。強気でモノを言っても聞いてくれる。であればこそ、自分がお世話をしなくて誰がするか。
清左衛門の生地については、岡崎城下南2里の土呂郷とする説と、その南2里の大草郷とする説がある。前者は「額田屋」の所在地であって、念誓は当日、落ち着かず上の空で過ごしていたに違いない。
もう一つの大草は、おあきの実家であろう。気の知れた女手がある実家で出産したと推測すると納得がいく。
この2年前、大坂の太閤家に男児が出生した。母は「茶々」と異称される浅井長政の長女で、織田家の血も継いでいる。「淀君」の異称は、天正17年(1589)、秀吉にとって2番目の男児鶴松丸を産んだとき、褒美に山城の淀城(現京都市伏見区納所)を賜ったことに依っている。
鶴丸丸が1歳2か月余で夭逝したため、秀吉は新たに誕生した男児をいったん捨てたことにして、それを家臣に拾わせた。捨て子、拾い子は丈夫に育つという俗信があった。それで男児には「拾」の名が付いた、という話がある。
額田屋に出入りする商人や道者、行者から、念誓もその風聞を耳にしていた。おあきを実家に戻したのはもちろんそのような理由ではないにしても、便宜上、赤子がいったん生まれた家の子になって実父の下に帰るというのは、遠く捨て子拾い子の俗信に由来していたかもしれない。
文禄4年(1595)の夏の終わりごろ、おこうに付けてあった下男が息急き切って、男児の出生を咆哮(よば)わった——とせよ。さて、どのような言葉を口にしたものか。
「何事もなくおん身二つに」では、商いの家らしくない。
――お生まれに。
ということにしておくのが差し支えなかろう。
――して、おこうは。
――にこにこと笑ろうてござった。
――うむ。でかした。
庭先でそのようなやり取りがあった、とする。
下男、下女に護られ、赤子とともにおこうが大草の田村家から戻ってきた。つい1年前、半年前までの小娘とは、雰囲気がまるで違う。
いつの間にか、念誓はおあきを「おかか」と呼ぶようになった。店の者も「奥方さま」はいかにもこそばゆく、気分的にはばかられる。だが、「おかかさま」であれば馴染みやすい。
ただし女中頭の志乃だけは「おこうさま」と呼んだ。行儀作法を仕込んだ教え子が、主の子を産んだ。気分は母親代わりであったろう。