この史譚は歴史的事実を踏まえつつ、推測と想像を交えて書いています。
慶長2年(1597)の正月、おこうが産んだ男児は数えで3歳になった。赤子の死亡率が現代からは想像できないほど高かった。ヨチヨチ歩きが始まれば、死亡率は格段に低くなる。
乳幼児の成長を祝う七五三という習慣は、慶長のころには存在していない。また男児も女児も赤子のときは頭を丸めていて、それは一つにはいつ命が儚くなるか分からない、つまり出家(僧=坊主)と同然という解釈に依っている。
坊主であるがゆえに、皮膚が薄く、体全体にうっすら血の色がうかがえるので「赤坊」(発音を補足して「赤ん坊」)だし、乳幼児を模した地蔵はみな頭を丸めている。
衛生上の理由もあった。こんにちのように洗髪の習慣がなかったので、特に夏場などは髪の毛で頭皮が蒸れる。そこが皮膚炎になり、害毒が体内に侵入する原因になるのを防ぐのである。
ともあれこの物語の時代、武家も百姓も、赤子が3歳になると「髪置き」という儀式をした。髪はもう丸めない、伸びるに任せるという意味である。ついでながら庶民の成人男子が月代に銀杏髷の髪型になるのは寛永から元禄にかけて、成人女性が髷を結うようになったのは明暦の大火(明暦3年1月/1657年3月)がきっかけとされる。
念誓はこのとき、男児に「清」という名を付けた。「清」の文字は右馬允家嫡流男子の証である。当面の通称は「清坊」だが、5歳になると「清蔵」「清三郎」などの名乗りになる。諱の「親」に準じる偏字といっていい。
その年の桜が散り始めたころ、額田屋の奉公人は茶木に藁筵をかける作業で忙がしい。藁筵をかけると葉に光が直射せず、苦味のないまろやかな茶ができる。
だが念誓は茶畑や店先に出ることをしなかった。季節の変わり目にひいた風邪が珍しく長引き、微熱と咳が抜けなかった。おこうや志乃などが部屋から出してくれなかったのだ。
若いころなら
――なんのこれしき。
だが、64歳ともなれば自重せざるを得ない。
することもない数日のうちに、念誓はあることを思い立った。呼んだのは佐原平作に代わって供回りを務めている熊田新五郎という少年である。平助は元服し、いまは額田屋の手代として蔵元の仕事に就いていた。
新五郎は菱池の縁を二里走って、
――あるじの申しまするに、談合したきことこれ有りに付き、ご足労願いたく。
と口上した。
田村甚介に否やはない。折り返し小舟で池を渡って額田屋を訪ねると、念誓の話は
――清坊の後見を頼みたい。
ということであった。
むろん、いきなりそのような話に及んだわけではない。今年の物成りのこと、大坂の情勢のこと、江戸の様子など、様ざまな四方山話の末に出た話である。
念誓の話は次のようである。
男児に「清」を名乗らせたからといって、右馬允家の家督が清蔵親重であることは動かない。それを冒したり、まして覆そうなどという考えは毛頭ない。右馬允松平家は江戸城下三河町に転出したのであって、ここにあるのは土呂松平家である。「清」の字を帯びた男児がその跡取り、ということになる。
――土呂松平家……。
甚介はポンと膝を叩く。
だが、念誓は歯も目も足腰もしゃんとしているし、月に一度の説法の音声は少しも衰えていない。
――いやいや、まだまだ。
と甚介は言うが、
――歳である。
事実は事実である。
ばかりでなくおこうの腹中にはもう一人、念誓の胤が育っていた。
――いつころりと逝くかもしれぬ。
それを思うと、子の行く末が案じられてならぬ。
――いかにも。そればかりは鬼神でもない限り、逃れることはできませぬ。
――しからば、清がいっぱしの主人面になるまで、額田屋の身代はおこうに預けようと存ずる。
店のことは六郎左衛門がうまく取り仕切るであろう。しかし何が起こるか、上方まわりの事情を思うと、先々のことは分からない。
上方まわりの事情とは、天下人の年齢である。慶長2年のいま、秀吉は62歳、家康は55で、ともに幸若舞「敦盛」にある
――人間五十年……
を超えている。ちょっとした疾病が命取りになることもある。
――そのときはよしなに。
――よしなに……、とは?
――いやさ、そのこと。
念誓が喩えたのは、信長・信忠亡きあとの織田家のことである。信忠の嫡男で幼少の三法師を家督とし、信忠弟の信雄と信孝が三法師を後見した。しかしそれは織田家の家督のことであって、天下のことは秀吉が預かって切り盛りしている。
右馬允家も念誓が行方知れずで失踪したあと、念誓の長男が清蔵の名を襲って家督を継ぎ、弟清三郎親成が後見した。大河内久綱の二男長四郎を異母兄正次の養子に迎えたのは天正15年(1587)のことで、念誓は岡崎に戻っていたが、しきたりに従って口出しはしなかった。
すなわち六郎左衛門に横領専横の気配があれば、甚介において額田屋を廃業するも自在である、と念誓は言う。