27.幻の「松平家由緒伝」のこと

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辻説法跡:本興寺鎌倉市大町)

 田村甚介に額田屋身代預けのことを伝えたあと、念誓が始めたのは、父親常から聞かされていたことを伝え残すことだった。清と名付けた幼児が成人するころ、間違いなく自分はこの世から去っている、という思いに突き動かされたからにほかならない。

 念誓は一向宗の出家であり踊り念仏の願人で、その勤めとして月に一度、三八市のいずれかの日に衆人を相手にした説法を行っている。近在100余村に30余の松平姓の者が帰農して残っていた。いずれも念誓より年下である。

 そこで念誓が考えたのは、

 ――説法の折、この者たちに話して聞かせるか。

 ということだった。

 この当時、松平眷属の一部の者は、徳川家が三河守受任に際して朝廷に提出した家伝の概要は知っている。加茂郡松平郷の有徳人・松平太郎左衛門の家に南朝方の落人世良田何某が転がり込み、太郎左衛門の娘を娶って松平家を継いだ、という話である。

 200年も前のことだし、大半の者はおとぎ話として受け取っている。であればこそ、父から受け継いだ言い伝えを知らせたい、と念誓は思っている。

 父親が念誓に語って聞かせたのは、祖父宗忠が語って聞かせたことであり、曽祖父で長澤家第四代当主勝宗が伝えた話である。徳川家の家伝由緒と違うのは、世良田何某と時宗の出家「徳阿弥」は別人ということだ。

 世良田何某が松平郷に流れてきたのは、伊那谷の浪合で行われた南朝方最後の合戦の折とされる。それは応永31年(1424)8月、三河の足助(挙母豊田市)に向かわんとした南朝軍80余騎と、諏訪から追撃してきた北朝方200余騎の間で戦われた。

 ――よくよく考えてみよ。応永31年とは、遠祖和泉入道どの(信光)が生まれた20年も後のことではないか。

 ――おお。

 聞いていた者どもからどよめきが起こった。

 続けて念誓が話したのは、おおむね次のようである。

 皆のもの、よーく聞け。松平郷に北朝方の何某が流れ着いたのは、それよりずんと古い弘和のころである。太郎左衛門はこれを貴種と見て匿い、郷の藪奥に住まわせた。

 ほどなく室町の捕吏が隠れ潜んでいた何某を探索して捕らえ、阿波に配流すべきところ、都で政変が起きてそれどころではなくなった。しかるに科人を挙母の寺で出家させ、上野国新田郡に帰らしめた。

 弘和とは南朝元号で、西暦1381年から1384年まで使われた。念誓がいう「都の政変」とは、1393年に起こった明応の政変のことであろう。

 では時宗の出家「徳阿弥」とは何者か。

 ――それはな、ただの乞食坊主、願人に過ぎぬ。果たして徳阿弥という名だったかどうか。朝廷に家伝由緒書を奉じた折に「徳川」にちなんで付けた名ではないか。

 願人は衆上に成り代わって神仏に願をかけ祈祷をし、神仏の告げを伝える。すなわち大道に立って説法をする。さらに漁師は海や川、修験と杣人は山が生業の場だったので、移動することに抵抗がない。そこで道を行く人という意味で道人、道者、行人、行者と称される。

 南朝の武士集団にも、修験、道者が少なからず混ざっていた。楠木正成が悪党(無頼者)だったように、徳阿弥も悪党の一人だった。何某の一件が片付いたころ、徳阿弥は徒党を組んで太郎左衛門の家に上がり込み、ほどなく娘の腹が大きくなった。

 松平郷の村人たちは

 ――主家に仇為す科人を、この郷より生きて出すこと、あいならぬ。

 と静かな怒りを持った。

 村人たちは偽って一党に酒を振る舞い、寝入っているところを鋤や鍬、鎌で突き刺し、鉄の槌で打って皆殺しにした。

 娘は男児を産んだ。悪党の胤では体裁が悪い。そこで太郎左衛門は南朝方の落人何某を持ち出した。男児に信光の名を与え、嫡男信広の養子とした。信広の嫡男が松平郷を継ぎ、養子の信光が分家して武門の家を立てたというわけじゃ。

 ではなぜ、南朝方の落人何某が下野国得川郷世良田ということになったのか。

 それは執権北條時宗のころ、世良田頼氏三河守に叙任されたことがあったからである。松平宗家が他の松平諸家より一段高いところに立つには、三河守の叙任を得ることが分かりやすい。和泉入道が左京亮、弥三郎宗忠が右馬允を官位を得て三河に戻ったようなものだ。

 父親常は宗家先先代(家康の祖父清康)が「世良田二郎三郎」の署名を使いはじめたころ、清康に近侍していた。そのあたりの事情を承知していたものと見える。

 ――お屋形さま(家康)は将軍の位をお望みときく。源家の血脈でなければならぬのではないか。

 と誰かが問えば、念誓は

 ――将軍の位は源家に限るとたれが定めたか。

 と即座に答える。

 ――蝦夷を征伐した田村麿は源家であったか。

 聴いていた者たちはグウの音もない。

 ――儂は三位中将どの(織田信忠)の同朋衆として岐阜にもいたし安土にもいた。そのとき聞いたのは、朝廷は織田右府(信長)、太閤(秀吉)にも、征夷大将軍の位を与えてやるぞよ、と内うちに告げていた。源家である必要はないということではないか。

 ――しからば、なぜ松平を「徳川」に変えたのか。

 ――世良田の本家得川家に因んだのだ。ただし、その正しい読みは「えがわ」である。しかし得川、江川、栄川ではなんの妙味もない。そこで「得」を「とく」と読み、圭字「徳」を当てた。

 「徳川」の名乗りを安祥松平宗家に限ることで、十八松平と区別した。本姓「松平」が「徳川」を名乗るのは複姓とされるが、実のところはそういうことではない。秀吉が木下から始まって羽柴、豊臣と姓を作り、「豊臣」を権力の象徴とした。家康はそれを傚ったのだ——念誓の「松平家由緒伝」は、むろん現存していない。

 

 

 

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