28.安土桃山"バブル"のこと

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『道外武者 御代の若餅』(部分):歌川芳虎

 天下を鳴かないホトトギスに喩えて、

 ――信長は「殺してしまえ」、秀吉は「鳴かせてみしょう」、家康は「鳴くまで待とう」

 というのは、揶揄混じりに正鵠を突いた歴史批評に思われる。

 あるいは餅に喩えて、

 ――織田がつき羽柴がこねし天下餅 ただらくらくと食ふは徳川

 という落首もある。

 下句の「ただらくらくと」は、「骨を折らずに」「坐りしままに」「坐って食ふは」「うまうまひとり」「寝ているままで」といった表記もあって一定していない。尾ひれはひれではないが、庶民が口伝えで流布したために違いない。

 ホトトギスも天下餅も出所原典は未詳だが、天下餅の狂歌は幕末に高まった徳川批判のなかで生まれたものらしい。

 出発点となったのは嘉永2年(1849)、

 ――君が代をつきかためたり春のもち

 の戯句を添えた歌川芳虎作『道外武者 御代の若餅』で、そこには鎧を着た武将が四人描かれている。杵を振る信長、餅を捏ねる秀吉、食べる家康のほかにもう一人、手水役明智光秀を忘れていないのは炯眼というべきだろう。

 これまでのところ本稿の中心にいる松平親宅、というより天正7年(1579)数え43歳で出家して「念誓」を号した願人は、まさに御代の若餅と同時代に生きている。すなわち信長と秀吉の居城に由来して「安土桃山」時代である。

 砂塵と血しぶきから、金襴と政治的駆け引きに転換した歴史の屈曲点だけに、時代の相は様ざまだ。南蛮貿易楽市楽座自治などが挙げられるが、教科書日本史が見落としているものがある。

 それというのは、

 ――バブル。

 というものである。

 バブルとは「泡」のことなので、表側だけが膨れに膨れ、張り詰め切ったところで破裂する。現代の資本主義経済が生み出すバブルは不動産や株式を介する投資に起因する。そもそもが数字遊びのようなものだから、中身はない。破裂したあとはむなしく飛沫が飛び散るだけだが、安土桃山のバブルは実体を伴った。

 なるほど、建築における金襴と極彩色の安土桃山様式は、成金趣味であるかもしれない。だけでなく、高々と聳え立つ石垣と天守閣もさることながら、贅を尽くしながら竣工から8年で取り壊された聚楽第、慶長3年(1598)3月に行われた醍醐の花見、たかだか土くれを焼成したに過ぎない茶器、極め付きは足掛け7年延べ30万の兵を動員した朝鮮戦役……等々には、虚勢と見栄、錯覚が渦を巻いている。

 しかしこれによって銭の流通が本格化した。菜種、荏胡麻、唐辛子、茶、綿、青苧(麻)、桑といった農産物が商品として取引されたのは、銭が貫(永楽通宝の穴を紐や細棒で貫き百枚単位でまとめたもの)、。菜種、荏胡麻、綿は燃料と食用油の原料であって、扱うことができるのは「座」の株を持つ者のみという商業利権が発生した。

 それとは別に、食用油の登場によって「衣を付けて揚げる」という調理法が登場した。朝鮮の役でもたらされた唐辛子は、胡椒、味噌、醤油と相まって、和食の味覚を整えた。

 茶、綿についてはすでに書いた。

 青苧は律令以前に「麻績部」(おみべ)という部民がいたように、古くから布を織る繊維の素材として知られていた。戦国のとき、上杉輝虎(謙信)が越後の専売としたことによって、商業利権と結びついた。

 桑は蚕の食餌である。桑を食べて蚕は糸を吐く。糸を紡げば絹ができ、その織物の需要が高まれば桑の需要が強くなる。青苧も桑も紡ぐまでは山郷だが、染め上げて仕立てるのは町場である。集荷し一時的に蓄え、町場に運ぶという仕事が広がった。

 念誓の額田屋が茶木の栽培から出発し、碾茶(粉末にする前の乾燥した茶葉)の製造・販売、酒造(醸造)、蔵元(倉庫と金融)、荷役(重量物の運送)、伝馬(手紙や小荷物の配送)と手を広げることができたのは、そのような農産商品の市場拡大によるところが大きい。

 大草郷の田村甚介が綿木の栽培にとどまらず、綿種の販売、綿糸の紡績と織布、染色まで家業を広げることを得たのも、京の上人や大身武家、分限者が綿入りの掻巻、蒲団、木綿の衣服を求めたからだし、戦乱の収束を背景に武士が鎧下着に防刃の機能を求めるようになったことに依っている。

 百年にわたる戦乱で律令の残滓は吹き飛び、鎌倉・室町の守護地頭は形骸化した。一方、軍馬輜重の往来で原野が均され峠が開削されて、そこここを結ぶ通路が整った。それは江戸の幕府諸藩が整備した街道の原型となった。

 例えば秀吉が「唐入り」「大明御動座」と称した朝鮮の役を興したとき、関東以北の諸大名は一万石当たり百人の兵を出すように命令を出した。九州の名護屋まで、津軽家500、伊達家6200、最上家5700といった兵が移動することができたのは、すべて往還の開通による。

 現今のように空を飛ぶわけではない。人は歩いて行くほかにない。石の河原や海辺の砂浜も道になった。街道(当時は「往還」といった)が町中に導かれるのは豊臣秀頼大坂城で滅び、徳川幕藩体制が確定した元和偃武(げんなえんぶ)以後だが、徒歩であれば人は賑やかな町場に立ち寄るものだ。

 見知らぬ町、初めて知った習俗、見たこともない商いや物品のことが土産話として伝えられ、それが人々を刺激した。つまり相乗効果のスパイラルが安土桃山のバブルだったことになる。

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