29.五右衛門釜煎り刑死のこと

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石川五右衛門と一子五郎市:一陽斎豊国画

  念誓が、明年は還暦、と思い定めて昵懇巡りを始めた文禄3年(1594)に時を戻す。その8月24日(グレゴリオ暦10月8日)のこと、京の三条河原で盗賊の一味が処刑された。

 権大納言太政官次官)山科言経はその日記『言経卿記』に、

 盗賊スリ十人、子一人釜ニテ煮ラル。同類十九ハ付ニ懸之、三条橋南ノ川ニテ成敗ナリ。貴賎群集云々

 と書いている。

 文中「釜ニテ煮ラル」は釜茹でではなく、菜種油による「釜煎」のこと、「付ニ懸之」は磔刑(柱に縛り槍で刺殺する刑)である。また処刑されたのは10数人であって、頭目は子1人と一緒に釜煎りされたことが分かる。

 頭目の名前は、ペドロ・モレホンというスペイン人宣教師が

 Ixiciva goyemon

 と記録している。

 この表記は、「イシカワ・ゴヱモン」と読むことを否定しない。すなわち石川五右衛門である。

 山科言経は藤原北家の流れを汲む公卿であって、このとき52歳、徳川家康の1つ下である。天正19年(1591)2月に初めて家康に面会したのを機に、朝廷おける家康の窓口となった。とともに豊臣家の内情をことあるごとに細かく家康に伝え、のちに徳川幕府から、山城国に三百石の家禄を受けている。

 一家郎党もろとも、五右衛門が公開で残忍な刑に処せられたのは、秀吉の命をねらったためであるとされる。このため、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子という説、遠江国浜松の真田八郎(または進之介)という武士で、大野庄左衛門という大身武家に仕えていたという説がある。

 五右衛門こと真田八郎が生まれたのは、疑問符付きながら弘治4年(1558)と推定されている。元亀元年(1570)、八郎が13歳のとき、浜松城(当時は曳馬城)に家康が入居している。所伝が一定の史実を反映しているなら、八郎はそれ以前に遠江国を離れていたのかもしれない。

 このような話を聞くと、筆者など昭和世代は白土三平さんの『カムイ伝』『カムイ外伝』の世界を想起する。

 Wikipediaカムイ伝」からカムイについて引用すると、

 ――身分上最下層とされる「夙谷」(しゅくだに)と呼ばれる非人部落の出身だが、物乞いに甘んじる部落の連中を嫌って、自由と誇りを求め単身で生きようとする。百姓小頭たちによって非人の子供が殺され、復讐のため立ち上がったが、あっけなく捕らわれ斬首の刑に処せられた。

 『カムイ伝』『カムイ外伝』の主人公は斬首されたカムイの双子の兄という設定である。八郎について言えば、彼が双子だったり被差別部落の出身だったということではなく、武家の世界=天下に恨みを持ちながら、故郷を捨てて道を行くことを選んだという点で、五右衛門はカムイに通底するものがある。

 願人、道者、行者が溢れ出たのは、世の中の箍が外れた応仁・文明の乱がきっかけである。貴族化した室町武士が没落し、目代・国人が荘園を横領した。明銭がそこそこに流通し、四方八方が道でつながったので、願人は行商を営み、大道芸で人寄せをした。

 耳目を集め、人を多く寄せれば品物が売れる。出雲阿国がそうだったし、松波新九郎も木下藤吉郎もそれを踏み台にして世に飛び出た。奇抜さと際どさ、ことさら大仰な身振り手振り、体を張った一か八かでのし上げる現今の「お笑い」芸人とよく似ている。

 松波新九郎は京の妙覚寺で出家し「法蓮坊」と名乗っていた。還俗し、山崎屋庄五郎の名で菜種油を売り歩いた。明銭の穴に触れることなく油を注ぐ芸で人を集め、やがてそれが長井家に仕えるきっかけとなった。「美濃の蝮」こと、斎藤道三である。

 道三は山城に生まれ、京に出て出家し、美濃に移った。分かっているだけで松波、山崎、西村、長井、斎藤と姓を変えている。室町の原理で見れば主家を陥れ、裏切り、謀略の限りを尽くした極悪人だが、戦国の理論では英雄である。

 木下藤吉郎は蜂須賀蓮華寺(愛知県あま市)の僧を父とする私生児で、針を行商して糊口をしのいでいたという伝記もある。実父もしくは継父の名として伝えられる「竹阿弥(筑阿弥)」は、秀吉が筑前守に任じられたことに由来し、徳川家の遠祖「徳阿弥」の名付け方と共通する。

 信長に仕えるに当たって妻・於禰の家の名乗りを借り、才覚と人たらしで天下人に登りつめるまでに、羽柴、藤原と姓を変え、最後は「豊臣」の姓を創出した。「豊」といえば律令の「豊国」、おおむね現在の大分県だが、秀吉にあっては愛知県の「豊」地方を意味していた。実際、豊川、豊橋、豊明、豊場、豊根、豊石といった地名が残っている。

 乱世の人々は現世を直視した。彼らの現実第一主義は、想像を絶する強さだった。預貯金はできなかったし、医療も保険もなく、生鮮食品は長期に保存できなかった。目の前で起こっていること、それに対応することが全てだった。

 なにより優先したのは、自身が生存し続けること、生き残ることだった。当時は圧倒的多数がその日暮らし、着の身着のままの暮らしだったので、それが不幸なこととは感じなかったかもしれないが、欲するままに食べ、自由に過ごし、自在に人を動かすことが最上の幸福を意味していた。

 ゆえに少なからずの人々は節操がなかった。約束の反故、裏切り、寝返りは常だったし、夫婦の関係にも無頓着だった。であればこそ厭離浄土を希求し、浄土宗や浄土真宗に流れたのだった。

 念誓は岡崎三郎(家康の嫡男、松平信康)の一件で三河を出奔したとき、道を行く人の中に紛れ込んだ。織田信忠同朋衆として岐阜、安土に滞在したとき、石川五右衛門の動静に接したかどうかは不明ながら、

 ――京の三条河原にて……。

 の知らせがもたらされたとき、大きな落胆があったかもしれない。抑圧に反発する庶民の落胆は、目の前にある強権に代わる新しい盟主への期待に転換する。安土桃山のバブルは、京の三条河原ではじけたのだった。

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