30.伊賀と三ツ者と風魔のこと

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忍者:ホームページ「観光三重」から

 今回は忍者について、である。

 安土桃山のころ、盗賊のなかには隠密活動や破壊活動に従事した人々が混ざっていた。いわゆる「忍」であって、カムイがそうであったように、その少なからずは被差別階層の出自であったり戦争孤児であったりした、といわれる。

 そうであったかもしれないが、個々の村落が自衛手段として自警力を備えていた時代であれば、住居田畑が破壊されて行くあてを失った流浪者もいたであろうし、出自は郷士ながら隠密や破壊の知識・技能で立身出世を意図した者がいてもおかしくない。

 「素波」「透破」「乱破」「軒猿」「伺い」といった呼称が知られ、素波は静にして密、乱破は騒にして動の違いともいう。小説や映画・ドラマでは猿飛佐助、霧隠才蔵が二大スターだ。百地三太夫服部半蔵真田幸村柳生石舟斎といった顔ぶれに、牧冬吉と真田広之がそろえばオールスターといったところだろうか。

 印を結んで妖術を操る児雷也ではないにしても、黒装束、手裏剣、撒菱、煙幕玉のイメージが強い。実際は周辺諸大名の評判や家中の事情、兵を進める経路や地形、城塞の構造や兵数・装備などを調べるのが日常だった。放火や破壊、暗殺といった荒ごとは、選抜部隊が従事した。

 忍の集団としては、伊賀、甲賀のほか、甲斐の三ツ者、小田原の風魔などが確認される。諜報に当たっては出家や山伏(修験)、行商人、大道芸人などに扮して道を行った。あるいは武家や商家に下男・下女となって潜り込んだ。

 虚無僧、托鉢僧、念仏の願人、官人や巫女の姿をした札売り、祈祷師あたりはいかにも怪しい。それに対して、行商人や大道芸人、下男・下女はあまり疑われることなく、はるかに多くの情報を手にしていた。実際、松波庄九郎(斎藤道三)は菜種油、木下藤吉郎は針の行商人だった。

 出自や経緯はさておき、戦乱が激しかったころは諸大名が傭兵として禄を給した。必要に応じてその能力を活用したという意味で、またその元締めがピンハネして実働者を過酷な状況に置くという意味で、現今の派遣雇用・就労とよく似ている。

 戦乱が信長、秀吉に収束し、武闘による殺戮から権謀術策の政治に転換すると、放火・破壊の仕事が激減した。だけでなく、武田の三ツ者と北条の風魔は雇用主を失って路頭に迷った。忍びが盗賊となり、そのなかに石川五右衛門のような反権力、反体制の人々が混ざっていたのは以上の事情に依っている。

 一度は道の人の中に入った念誓は、額田屋主人である現在も、よかれ悪しかれ道の人々との縁を保っている。当然ながら、その中には「忍」「草」と呼ばれる人々も含まれる。現役もいれば元もいる。

 実をいうと、これは創作、想像、空想ではなく、家康は早くから忍を使っていた。時代劇風にいうと「飼っていた」。永禄5年(1562)の2月、今川義元の妹婿・鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)攻略戦では、家康が放った忍が城内に火を放ち、その混乱が落城に結びついた。

 その最初は、家康の祖父・清康が伊賀上忍の服部半蔵(保長)を家臣に加えたことにさかのぼる。足利第12代将軍義晴に拝謁したとき、半蔵と面談したのがきっかけという。その嫡男・半蔵(弥太郎正成)は家康の旗本先手衆となり、8千石の禄をもって伊賀同心200人を統率した。記録に「忍で取る」とある。

 200人という数は、天正18年(1590)8月に徳川家が関八州に転出したあと、東海三国(三河遠江駿河)にその兄弟・子孫が少なからず残留したことを否定しない。ばかりでなく、家康は武田家の遺臣を多く家中に加えていた。その遺臣について三ツ者の人々も移っていた。

 忍を多く用いたのは小田原北条氏である。前述した風魔がそれであって、「風摩」「風广」「風間」とも表記される。「間」と書くより「魔」の方がいかにもおどろおどろしい。またその配下は、山賊、海賊、強盗、窃盗をまとめて「四盗」と称された。

 行政区分でいうと相模の足柄下郡、いわゆる足柄山に盤踞し、山越えの旅人の道案内をしたり、ときに山賊を働いた。駿河の今川家に仕えていた伊勢長九郎(長氏、のちの北条早雲)が伊豆を攻略したとき、そののち小田原の大森藤頼を滅ぼしたとき、素波として雇われた。

 頭目として名が伝わる「風魔小太郎」はどうやら創作上の人物であるらしい。本姓は「小田」といい、早川沿いの「風間」の地に屋敷を構えた。山内上杉家の家臣「小田出羽守太郞左衛門尉時知」も「風間出羽守」を称している。

 その数は2千人ともいわれ、天文14年(1545)9月の川越合戦(今川、武田、山内上杉、扇谷上杉など反北条陣営が古河公方足利晴氏を担いで川越城を包囲した)では、敵陣の兵站を撹乱したり、夜陰に本陣に忍び込んで放火、殺傷を働いた。

 また天正9年(1581)に北条氏直駿河の黄瀬川をはさんで武田勝頼と対陣したとき、風摩の一党は繋ぎ馬の綱を切って暴走させ、放火し、あちらこちらで閧をあげるなどして撹乱した。 

 それが天正18年(1590)7月、雇い主を失った。

 下人の多くは半武の杣人、漁人に戻り、あるいは百姓となったが、北条家で侍の待遇にあった上人の一部が四散した。そのうちの一党が、駿河のあちらこちらで分限者を手荒に襲うようになった、というのが次回に続く話である。

 

 

 

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