32.伊豆検校土屋圓都のこと

f:id:itkisyakai:20210801155400j:plain

井伊直虎着用の幅広袖付胴丸:井伊美術館

 文禄5年(1596、同年十月二十七日改元し「慶長」)から慶長3年(1598)にかけて、風魔党と関東周辺の忍者集団との間に起きた軋轢は「慶長騒擾」と称される。

 風魔党と争ったのは越後の伏齅(ふせかぎ)組、富士御師の一九色衆、駿河甲賀者、三河伊賀者らだった。関八州に軋轢が生じなかったのは、そもそも北条氏が支配するところだったためである。北条の勢いが及ばなかった結城の家中にも、風魔党は入り込んでいた。

 天正18年(1590)の8月以後、徳川諸将の知行差配下にあって、風魔党は「四盗」の本領を発揮した。山賊、海賊、強盗、窃盗、さらに放火、撹乱である。それは徳川四代将軍家綱のころに至っても収まらず、寛文5年(1665)、町家における強盗団の探索を専門とする「盗賊改」方が設けられた。いかに風魔党の所業が巧みで厳しかったかを物語る。

 先に慶長騒擾の終局を書いておくと、念誓が

 ――なにか手立てはないか。

 と考えるようになって1年、すなわち慶長3年(1598)の秋以後、風魔党の仕業と思われる事件は起こっていない。もともと実体が見え難かったとはいえ、まるで霧が晴れるように、彼らは東海三国から影を消した。

 ただし念誓が何もせずに過ごしてわけではない。

 一つは田中吉花押入りで

 「於令狼藉者、可加成敗者也」

 の高札を上下の市場の辻に掲げ、一つは寄合所の表に弓、槍、楯などを並べたて、また一つは評定の士分に鉢金・胴丸を着用させ、さらにその姿で市中や川筋を巡回させている。いずれも土呂陣屋の寄騎頭・宮原宗左衛門と諮った策だった。

 ――くるなら来てみよ。

 の姿勢であり、併せて土呂陣屋と市場評定衆の連携が強いことを示したものだった。

 自警力を見せつける一方、念誓は風魔党に自重を求める策も講じている。まず思いついたのは、伊賀者の暴走を抑えるため、その頭目である服部半蔵に文を書くことだったが、それでは片手落ちになる。

 ――たれかいないか。 

 ふと思いついたのは、伊豆検校土屋圓都のことである。

 圓都は「圜都」とも書き、読みは「えんと」が一般的だが、「えんいち(えいち)」「おんいち(おいち)」の方が正しいかもしれない。理由は後述(次回)する。

 駿河国大平郷の在郷領主で、幼少のころ眼を煩い視力を失った。父は甲斐国守護武田家につながる土屋氏の宗家であって、武田信虎に従って駿河に住み着いた土屋昌遠である。

 初伝には

 「父の死後、母と外祖父菅沼定則の所領があった遠江井伊谷に移り、のち今川義元の許に人質としてあった竹千代(のちの徳川家康)の御伽衆として仕え、義元の子氏真の請われてその家臣となり……」

 とあるのだが、父昌遠が物故したのは仕えていた武田信虎が亡くなった天正2年(1574)以後のことなので、やや時系列が符合しない。

 ただし、冒頭の「父の死後」を無視すれば、井伊谷で育ち、少年期から青年期を駿府で過ごしたというのは、あながち虚構ではない。想像を逞しくすると、女性ながら地頭として戦国の世を生きぬいた井伊直虎に頭を撫でられたことがあったかもしれない。

 生年は未詳だが、家康とほぼ同じ年齢だったはずである。また、三河野田城新城市豊島)の城主・菅沼定則が外祖父ということであれば、母の姉が嫁いで月ヶ谷(わちがや)城(豊橋市嵩山町)西郷正勝との間に成した西郷元正、家康の側室「西郷局」とは従兄弟の関係になる。

 甲斐の名族土屋氏当主ということから今川氏真北条氏政の御伽衆に列していたことは間違いない。「いち」の名は琵琶や箏(琴)を操る盲目者に付される号名なので、圓都は琵琶法師として氏政の周辺を彩ったのであろう。

 天正18年には小田原城内にいて、家康が北條氏政を説得して城外に連れ出した。余談ながら、秀吉の小田原城攻めは比較的緩いもので、籠城組に参加したいと申し出た武将のために道を開けたり、城から出たいといえば許されることもあったらしい。

 それ以前から圓都は、伊豆半島の西海岸、江浦湾を望む大平郷の高台に館を構えていた。館とはいえ曲輪や空堀があり、兵が集えばただちに城になる構えである。遠祖土肥実平と縁が深い土地で、伊豆に産する金と駿河湾の海運を押さえる要衝である。「伊豆検校」の異称はそれに由来している。

 圓都は父の代から甲斐の三ツ者や黒鍬衆と縁を持ち、北条氏政の御伽衆として風魔党の頭目・風間出羽守こと小田太郎左衛門とも交流がある。だけでなく、自身が道者である。

 小田原開城、徳川家の関八州転出を境として、大平郷に「甲州浪人」が陸続と入植していることを念誓はつかんでいた。庵原山城(静岡市清水区草ケ谷)を有した朝比奈信置・信良父子の旧臣ということだが、

 ――圓都の許に風魔党が身を寄せているのではないか。

 と念誓はにらんでいた。

 武田家が天目山に滅んでから20年近く経っているのに、不自然ではないか。

 念誓がそのような情報を得ることができたのは、言うまでもなく織田信忠同朋衆として岐阜、安土で接した多くの道者、額田屋に出入りする行者との交流に依る。

 自分が知っているのと同じ程度に、圓都は松平念誓を知っているかどうか。ともあれ、念誓は文を認め、かつて次席寄騎だった川井惣五郎と供回りの熊田新五郎を大平郷に出立させた。およそ60里(220km)、4日か5日で着くであろう。

 

続きは⬇️ 

biography.hatenablog.com

アクセスカウンター