33.琵琶法師「当道座」のこと

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山田検校顕彰碑(藤沢市江ノ島

 木枯らしが吹き始めたころ、果たして川井惣五郎と熊田新五郎は圓都の返書を持ち帰った。行きに4日、戸倉の城下で返書を待つのに1日、帰りに4日、都合8泊9日かかっている。東海三国を通る東海道は度重なる軍兵輜重の往来で道幅が広げられ、道者、行者のための休み場や宿ができるなど、往還としての機能が整いつつあった。

 ――いかがであったか。

 念誓が言うのは、大平屋敷の造り、人の出入り、家人の様子、伊豆検校の姿かたちである。だけでなく浜松、掛川駿府三枚橋(沼津)など往還の城下、川渡の様子、道々に見聞きしたもの、道の険しさや歩きやすさ等、いずれでもいい。

 ――話せ。

 惣五郎も新五郎もそれは心得ていて、歌に名高い富士の峰や田子の浦のことを語り、駿府城の大天守閣を語り、ここ数年にわかに増えた木賃宿のことを語った。しかし

 ――検校さまには拝すること叶わず。

 であったという。

 返書はもとより代筆なので、文字から圓都の人となりを伺うことはできなかった。時候の挨拶、安土で同席の機会があっただけの自分を忘れずにいてくれたことを謝する旨のあと、「かの者どもは近々退散いたすでありましょう」ということが書かれていた。

 圓都と風魔党の関係が示されていないので、個人的な感想なのか、何か根拠があってのことなのか、分からない。また、年が明け梅が開くころになったら上洛する予定があることが文末には記されていた。

 どこかで会ったことがある、と念誓は思っていた。廊下の向こうから茶坊主に手を取られ、別の茶坊主が足元を払い、上にも置かぬさまでやってくる盲目の琵琶法師があった。

 ――そうか、安土であったか。

 にしてもこちらの顔かたちを見ること能わざるにもかかわらず、わずかに言葉を交わしただけの自分を覚えていたのはたいした記憶力である。いや、目が見えないだけに、記憶と感覚が鋭いのか。

 念誓は知らなかったが、このとき圓都は肥前名護屋に在陣中の家康と――正確には家康の知恵袋である本多正信と緊密に連絡を取り合っていて、それは風魔党を使って探りだした東海三国の豊臣大名の動静を知らせていた。

 圓都が井伊直政の仲介で小田原城から救出されながら、ただちに徳川の禄を受けなかったのは、そのような密約ができていたためだった。家康はその労に報いるべく圓都を惣検校に推挙し、圓都はその叙任を受けるために上洛するのである。

 ここで検校について触れておくと、Wikipedia〈検校〉には、

 「元々は平安時代鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名であったが室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着した」

 とある。

 それが盲目者と結びついたきっかけは、

 「仁明天皇の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科(現在京都市山科区)に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた」

 ことにあるという。

 足利初代将軍尊氏の親族で、「明石どの」と称された覚一という出家が、自身の屋敷を以って男性盲目者で琵琶・箏をよくする者の互助組織、その序列秩序を司る「当道座」を設けたのが転機となった。現代と比べ衛生状況が劣悪で、医療・医術が未熟だったので、眼病から失明する人が少なかった。

 勝新太郎さんの当たり役「座頭市」は、

 「盲目者の座の長である市さん」

 の意だが、創設者の覚一にちなんで「いち」と名乗る検校が少なくなかったという。圓都の読みが「えんいち(えいち)」もしくは「おんいち(おいち)」なのはそれゆえである。

 のちに徳川幕府は当道座を寺社奉行の差配下に置き、座頭、勾当、別当、検校の四官を定め、それぞれを十六階級に分けた。ここに入門、初心、見習いの刻みを加えて計七十三の刻みが定まった。圓都の時代、四官は未分だったし、階級はここまで細かくなかった。

 物語の都合上、圓都は慶長3年の2月に上洛して惣検校に任じられ、ただちに当道座屋敷に入った、ということにしておきたい。この史譚のころの当道座屋敷は、京都河原町の浄教寺がその場所とする考証がある。

 「惣」の文字があるので「検校の最高位」と解説され、誤解されやすい。

 念誓も

 ――さように偉いのか。いやいや知らなかったわい。

 と驚いた。

 なるほど惣検校は検校・座頭を束ねる役目なので偉いことは偉いのだが、定めを作り地域の惣検校を指名する権限は洛中の当道座にある。その屋敷の主は「職惣検校」であって、圓都はその候補者として認知されたわけだった。

 ちなみに圓都は、このとき正式な名乗りを「伊豆圓一」と改めた。ゆえに妙観流検校系図は「圓一」である。

 これより2年後、石田三成が家康排除の兵をあげたとき、「お味方願わしゅう」と声をかけたが、応じなかったという逸話がある。検校が味方することが諸大名への訴求につながったのか、名族土屋氏の眷属支族が全国に散っていたからか、家康と昵懇なのを知って人質にしたかったのか、そのあたりはよく分からない。

 土屋圓都改め伊豆圓一が当道座屋敷に入ったということは、風魔党が朝廷公認のもとで洛中に拠点を持ったに等しい。圓一が出向くところ、風魔党は供回りとして出入りすることができ、屋敷の構造が分かれば床下、天井裏に潜むのは難しくない。

 圓一は千宗易と同じく筆まめに旧知をたいせつにしたと見えて、季節の折々に土呂に文を送ってきた。念誓も土呂の茶に文を添えて使いを送り、洛中洛外の様子を伺うことができた。何度かの往来があったその年の十月、届いた文に念誓はあやうく腰を抜かすところだった。

 ――太閤が……

 死んだ、という。

 

【補追】伊豆圓一は慶長17年(1612)閏10月、第20代職惣検校となった。「四官十六階七十三刻」の基礎を作り、元和7年(1621)10月25日没。 墓は下京区日蓮宗本圀寺にある。家康と同じ年に生まれていたとすれば享年79である。

 

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