34.阿弥陀ヶ峰に埋葬のこと

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豊国廟:阿弥陀ヶ峰(京都市) Wikipediaから

 豊臣秀吉が齢62をもって息を引き取ったのは慶長3年(1598)8月18日(新暦9月18日)だった。秀吉というと大坂城のイメージが強いのだが、それは後継に指名した三男秀頼のために築いたのであって、亡くなったのは居城だった伏見城である。

 現代医学の知見として、脳梅毒、大腸癌、尿毒症などの死因が挙げられている。最晩年の日秀吉は、じわじわと押し寄せる死の恐怖と闘っていたわけだった。脳梗塞や心臓発作といった突然死でなく、多臓器不全つまり老衰でもなかったのは確からしい。

 秀吉は五月の時点で死が近づいていることを覚悟していた。同月15日付で11条で成る『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』を作って家中重臣に発給し、必ずこれを守る旨の血判起請文を取っている。文書の発給先は徳川家康前田利家前田利長宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元前田玄以長束正家およびその嫡男であったとされる。

 次いで秀吉は7月4日、家康以下の諸大名を伏見城に呼び集め、皆の前で

 ――秀頼の後見をするように。

 と家康に申し渡した。

 ――畏まってござりまする。

 家康が平伏して誓うところを演出したのであろう。

 さらにまた8月5日付で、家康、利家、輝元、景勝、秀家の大老5人に宛てて

 「返々秀より事、たのミ申候」

 で始まる遺言状を認めた。

 天下人の死は固く秘匿されたが、伏見城に出入りする諸大名の行列の様子で、城下の人々は異常を感じ取った。五大老の名で朝鮮からの撤退が命ぜられた10月5日ごろには、「太閤の死」は公然の秘密になっていた。土呂の念誓が圓一からの文で知ったのも同じころであったろう。

 10月の後半から小西行長島津義弘の兵が釜山を離れた11月25日まで、朝鮮半島の秀吉軍は撤退戦を強いられた。文禄の役から足掛け7年、明帝国軍と激烈な戦いを繰り広げながら、失なうものは多く、得るものはなかった。後背から追撃を受けつつ撤退する虚しさが、喪失感となって諸将を襲っていた。

 秀吉の公式な葬儀は行われていない。その理由として、西国大名が朝鮮戦役で疲弊していたこと、秀吉亡き後の政治的主導権をめぐって五大老五奉行の確執が表面化したことなどが挙げられる。しかし本能寺のあと、大混乱のなかでも信長の葬儀は盛大に行われている。秀吉は身内ばかりを優遇したので、織田以来の譜代や賤ヶ岳以後の外様には人気がなかったと見える。

 人気がなかったのは武家ばかりではなかった。

 もとより公卿には卑賤の身の成り上がり者と蔑視されていたのだが、「天子の大明動座」を標榜した朝鮮戦役が本格化したときから、朝廷の内うちでポスト秀吉の模索が動き始めた。山科言経に代表されるように、多くが徳川家康に目を向けるようになった。

 洛中の民衆が秀吉の独り栄華を怨嗟したのは、贅を尽くした聚楽第をわずか八年で取り壊したことではなく、大内裏の内に城郭を築いたことにある。さらにまた、秀次が現職の関白のまま自刃に追い込み、「たかが」盗賊であるに過ぎない石川五右衛門を凄惨な方法で皆殺しにした非道を、内心で強く批難した。

 秀次の一家眷属40余人、五右衛門の一家郎党10余人を、ともに三条河原で公開処刑にしたのが、それに輪をかけた。目撃した者が知り合いに伝え、聞かされた話が行商人や大道芸人によって諸国に伝えられた。秀吉の人気は地に落ちていた。民衆から強く支持されていれば、誰かがそれを受け継ごうとしたであろう。

 葬儀が行われないまま、伏見城内に安置されていた遺骸がひっそりと京都東山の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されたのは、翌慶長4年(1599)の4月だった。明治30年(1897)に豊国神社を再建した際、秀吉の墓を掘り起こしたところ、秀吉の遺骸は直径一mほどの大きな壺に納められ、座して合掌する姿だったと伝えられる。

 秀吉の死後、政治を仕切ったのは五大老五奉行である。そのうち徳川家康伏見城にあって表のこと(政治)を取り仕切り、前田利家は秀頼の傅役として大坂城に入って豊臣家の家宰を仕った。建前では秀頼が主だが、実質的には家康が伏見城主、利家が大阪城主という二元体制が出来した。

 永禄5年(1562)以来、織田信長の同盟者だった家康は、位は内大臣、石高は256万石と五大老の中でも群を抜いていた。権大納言で83万石の前田利家は、122万石の毛利輝元、120万石の上杉景勝、57万石の宇喜多秀家と連携して家康を牽制する――秀吉のねらいはそこにあった。

 ところが、利家が自分の後を追うように、慶長4年閏3月、61歳で死去することまで、秀吉は計算していなかった。秀吉の遺骸が阿弥陀ヶ峰に埋葬されたとき、豊臣家のバラストとなるはずだった利家もこの世を去っていたわけだった。

 家康は福島正則の養子正之に自身の養女満天姫(異母弟松平康元の娘)を、黒田長政にやはり養女栄姫(保科直之の娘)をそれぞれ娶らせ、伊達政宗の長女五郎八(いろは)姫を六男辰千代(忠輝)の正室に迎えている。黒田に毛利を、伊達に上杉を牽制させつつ、派閥の強化を図ったことになる。

 これに異を唱えたのは浅野長政(甲斐甲府22万石)、前田玄以丹波亀山5万石)、石田三成(近江佐和山19万石)、増田長盛大和郡山22万石)、長束正家(近江水口5万石)の五奉行である。

 ――我らこそが豊臣家を支えている。

 ――大老は顧問に過ぎぬではないか。

 ――太閤殿下のご遺志を忠実に守っているのは我らである。

 という自負が彼らをいきり立たせた。

 

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