35.自重論と強行突破策のこと

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三河一向一揆月岡芳年

 太閤が死んだ、と伊豆検校圓一から知らされて念誓は魂消たものの、なにせ遠く離れた桃山で起こったことである。実感はない。

 道者、行者が伝えてくるのは、

 ――何ごともなし。

 で桃山の城下にも洛中にも、目立った動きはないようだった。強いて言えば、家康が名護屋を引き上げて、桃山城下の徳川屋敷に入った、ということぐらいである。

 念誓は手代元締めの槇六郎左衛門と次席の川井惣五郎を呼んで、

 ――お屋形さま(家康)が触れを回せば、徳川の諸将が先を争って上方に向かうであろう。そのとき岡崎界隈でお味方する者はたれとたれか。

 調べよ、と命じた。

 「お味方」とは、触れに応じて参陣するだけではない。銭や糧秣を供出するのも、往還や休み処を整えるのも「お味方」である。さらに「お手伝い」の手が要る。飯を炊き出し水を与え、往還を誘導し、夜の行軍に備えて松明を蓄え、さらに多くの厠も用意しなければならない。

 天正11年(1583)4月、賤ヶ岳合戦のときの美濃大返しを念誓は覚えている。まだ羽柴を名乗っていた秀吉が、織田信孝岐阜城攻めで美濃国大垣に布陣していた五万の兵を、近江国木之本(長浜市)まで、5時間で走らせたことがあった。

 グレゴリオ暦六月上旬の晴れ間、甲冑は脱ぎ捨てたにせよ刀槍を抱えて13里(52km)を5万人が走破したというのはギネス級といっていい。秀吉が村々に握り飯の炊き出しと松明を用意させたのは、作戦のうちだったのではないか、とする見方もある。

 脱落した者もいただろうし、たどり着いたときは本隊が賤ヶ岳に発進した後だったということもあった。にしても、まさかこんなに早く「総金」の旗印が立つと思っていなかった佐久間盛政は大いに驚き、柴田勝家軍の総崩れ、北ノ庄陥落につながった。

 念誓はそれをやろうというわけだった。

 その動きは土呂陣屋の寄騎頭・宮原宗左衛門から、岡崎城の目付に逐一報告されていた。土呂陣屋はそもそも、石川数正が三八市と土呂郷の秩序・治安のために設けた詰所だが、その役目は市座評定衆が担っている。いまや陣屋の仕事は念誓との連絡と、その行動を監視することといっていい。

 普段、額田屋には宗左衛門の下役同心と手先が巡回の途中で立ち寄り、茶飲み話かたがた店の手代から市の様子を聞く。新しい出店はどうか、何が売れているか、胡乱な者の出入りはどうか、どこのたれが死んだ、郷のどこで道が崩れた、菱池の船着場は……といった情報を仕入れていく。

 額田屋も同心や手先に茶を出すだけでなく、野菜や干物など付け届けを怠らない。陣屋の動き、田中家家中の様子を知ることができるからだが、太閤の死去が公然の秘密となった慶長四年の晩秋ともなると、お互いに探り合いが続いている。田中家も秀吉亡きあとの情勢を伺っているようだった。

 念誓にすれば

 ――お屋形さまは何をやっておるのだ。

 とじれったい。

 肥前名護屋の徳川陣営は1万5千である。

 このうち桃山の城下に移動したのは5千、と念誓は聞いている。

 朝鮮の戦役から加藤清正小西行長らの軍勢が戻ってくるまでに幼い秀頼を推戴して城中に兵を進めれば、天下の権は徳川に転がり込んでくる。それが戦国の常識であるし、織田右府(信長)亡きあとの秀吉の振る舞いでもあった。

 家康も同じことを考えたが、知恵袋の本多弥八郎(正信)と懐刀の本多作左衛門(重次)がそろって自重論を開陳した。一つは朝鮮戦役に向けて、福島正則石田三成らがいつでも出動できる準備を整えていた。手勢5千では光秀の二の舞になりかねない。

 もう一つは関八州から繰り出してくる徳川の軍兵が、迅速に上方まで進軍する道がない、ということである。甲斐路は甲府浅野長政が押さえ、東海路は駿府中村一氏掛川山内一豊、浜松の堀尾吉晴、岡崎の田中吉政、さらに清洲福島正則と、いくつも障害を乗り越えなければならない。

 いずれにせよ強行な手に出るのは得策でない。家康は自重論に同意した。

 そこで弥八郎が言うのは、

 ――まず福島正則を調略して東海路の懸念を取り除き、次に朝廷に働きかけて官位を得る。

 ということである。太閤亡きいま、家康は正二位内大臣で最高位にある。太政大臣に昇れば、追随の余地はないであろう。

 ただそれだけでは万全とはいえない。家康が江戸に戻り、徳川の全軍に号令をかける機会を作らなければならない。そのためにはいささか細工が要る。

 むろん、そのような内実が念誓に伝わることはない。

 ――遅い。

 年が明け、正月が過ぎ、梅が開いても上方にも江戸にも動きはない。念誓の苛立ちはますます高まった。

 還暦の功徳に始めた昵懇めぐりで蓄えた感触から、岡崎界隈百余の村々に「お味方」は、

 ――ざっと三百家。

 と念誓は見ている。その大半は先祖の墓や田畑を守るために関八州随行できなかった徳川恩顧の家人で、松平姓30余が混ざっている。

 秀吉の刀狩令三河ではほとんど実施されず、

 ――目立って装うことを控えよ。

 という程度の達しにとどまった。田中吉政が徳川恩顧の帰農者の反発を恐れたのだ。つまり皆みなが、蔵や天井裏に甲冑、刀、槍、弓、鉄砲を隠し持っている。

 額田屋の手勢は30人ほどである。

 ――土呂の陣屋を襲って旗を立てるか。一向一揆も最初はそのようなものであった。300余家があとに続き、土呂一揆の勢いが遠州駿河に及べば……

 と思わぬでもない。田中家10万石にわずかな手勢で向かうというのは、現代の我われからすれば不合理この上ないことだが、乱世を生き抜いてきた願人にあっては少しも不思議ではない。

 

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