36.三成の佐和山城蟄居のこと

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佐和山城(想像図):ネットサイト「近江戦国歴史ロマン」から

 念誓が考えた土呂陣屋襲撃計画は、

 ――大義も名分もござらぬ。

 という槇六郎左衛門の一言で白紙に戻った。

 なるほど、額田屋の旧右馬允家家中が蜂起すれば同調者が出るに違いない。お屋形さま(家康)が岡崎に戻れば、当地が再び徳川の本拠となり、土呂が東海の堺になるかもしれない。

 しかし田中吉政に重大な落ち度はない。陣屋の宮原宗左衛門は、風魔党の一件で談合を重ねるうち、三八市の評定衆に協力する姿勢を示すようになった。一揆を起こす理由がない。 

 ――にしても、いまを逃す手はなかろう。

 三河の土呂で念誓がじりじりしていたとき、慶長4年(1599)3月のことだが、大坂城下で政変があった。秀吉五奉行の筆頭と目された石田治部少輔(三成)が失脚したのである。

 当道座屋敷にいる伊豆検校圓一は

 ――内府のお役目がますます重くなった。

 と書き送ってきた。家康贔屓でなくとも、そのように見るのが順当で、ということは洛中の公家衆はいっぺんに家康に傾いたと言っていい。

 ただ念誓にあって石田治部少輔は

 ――青二才。

 に過ぎない。戦歴といえば天正18年(1590)の武蔵・忍城攻めぐらいで、それも秀吉が手柄を立てさせてやろうと五万もの大兵を与えたにもかかわらず、わずか2千の兵で立て籠もる成田長親を降参させることができなかった。

 この戦いで際立つのは、三成が水攻めを採ったことである。8千万貫の銭を投じて7里半(28km)もの堤を築き、利根川の水を引き込んだ。城郭を浮島にしたのは、秀吉が行った備中高松城の水攻めに傚ったのだとされる。

 ――城兵の殲滅を目的とせず。

 と言いながら、攻め手に2千以上の死傷者が出た。

 三成の評判はすこぶる悪いのだが、この作戦は秀吉の命令だったことがのちの研究で分かっている。三成は現場の指揮でも浅野長政(のち甲斐甲府城21万5千石)や木村重茲(のち淀城18万石、秀次事件に連座し自刃処分)に指示を仰ぐなど、自身の方針、作戦を持っていなかったらしい。 

 ともあれ、念誓からすると、「青二才」に過ぎない。詳細は不明ながら、加賀大納言(前田利家)が没した直後、豊臣家中の内紛が表面化したこと、その内紛を収拾させるために三成が奉行職を辞して佐和山城に逼塞したことだけは分かった。

 ここで念誓に情報を提供しておくと、秀吉が定めた五奉行とは、浅野長政前田玄以石田三成増田長盛、長塚正家の五人をいう。5人で政策を評議したのではなく、それぞれが専門分野を受け持っていた。浅野政長は司法、前田玄以は宗教、石田三成は行政、増田長盛は土木、長塚正家は財務という具合である。 

 このうち前田玄以石田三成増田長盛の3人は、秀吉なきあと桃山城(のち増改築され「伏見城」と改称)の番役を輪番で務め、城内に館(曲輪)を構えていた。治部少曲輪の一段下に家康の屋敷があったのだが、彼らと関係が悪くなったので家康は城下、宇治川を挟んだ向こう岸(向島)に館を移したばかりだった。

 秀吉が遺言で家康に表(政治)のことを任せたのが、五奉行には気に入らなかったらしい。いや、気に入らなかったのは衆目が家康を実質的な桃山城の主、つまり秀吉の後継者と見ていることであって、それが原因で家康の言動が気障りになったというべきだろう。

 様ざまな史料から時系列に状況を追うと、

 ・3月3日、大坂城下で前田利家が死去。

 ・同日夜、秀吉子飼いの7将が三成屋敷を襲撃。

 ・三成は佐竹義宣の協力で難を逃れ桃山城内の石田屋敷に移動。

 ・三成は増田、前田の奉行2人に仲裁を依頼。

 ・佐竹義宣向島に出向いて家康に委細を説明。

 ・7将が伏見にいたり、家康に三成の処断を談判。

 ・家康が7将に文書で「追って井伊直政から申候べし」と返答。

 ・家康は高台院北政所、秀吉正室於禰)と相談。

 ・高台院の判断で三成の奉行解任、佐和山城への退去・蟄居が決まる。

 ・3月10日、三成が近江の佐和山城へ退去。

 となる。難問の裁定を下したのは高台院、実質の利を家康が得たことになる。

 しばしば時代劇では、窮地に追い込まれた三成が家康の屋敷に逃げ込み、それを家康が助けたというエピソードが語られる。しかしそれは明治に入って帝国陸軍参謀本部『日本戦史・関ヶ原役』(1893年)、徳富蘇峰『近世日本国民史』(1922年)の過誤によるところが大きい。

 また7将とは、福島正則加藤清正池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明黒田長政であって、関ヶ原では「三成憎し」の一念で東軍についたとされる。朝鮮戦役をめぐって五奉行、なかんずく行政を掌握していた三成が7将に恩賞を準備していれば、軋轢は回避できたかもしれない。

 しかし三成にはそれを実施する権限が与えられていなかったし、家康を仮想敵と見て疎んじていた。対して福島正則は家康の仲介で松平康元(家康の甥)と、黒田長政は保科正直とそれぞれ婚姻を結び、細川忠興は家康の一存で6万石の加増を受けている。7将は利を見て家康を支持したのである。

 ちなみに高台院が桃山城を出て、洛中の太閤屋敷に移ったのはこの年の9月だった。同時に家康も桃山を離れて空き家になっていた三成の大坂屋敷に入り、次いで9月28日、大坂城西の丸に入った。秀頼を推戴しつつ、天下の政治を担う体制が整った。あとは他者の追随を許さない官位があればいい。

 ――お屋形さまは必ずや三河に戻られる。その折には岡崎が再び徳川の本拠となり、土呂こそが東海の堺になる。

 念誓はことあるごとにそう口にしてきた。それはもはや田舎者の空想に過ぎないのだが、念誓はまだそのことを知らない。

 

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