37.徳川どのが天下人のこと

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二条城:洛中洛外屏風(林原本)

 三成の奉行解任、佐和山城蟄居に関連して、

 ――なぜ三成は大坂にいたのか。

 という素朴な疑問がある。

 秀吉の子飼い7将がそろって大坂にいたのは、朝鮮戦役からの帰着を豊臣秀頼と後見人前田利家に報告するためだった。彼らはそのあと伏見城に詣でて、家康にも同じことをする手筈だった。桃山にいるべき三成が、身の危険を承知で大坂に出向いたのはなぜか。

 三成は大坂にも屋敷を持っていた。その屋敷はのちに家康が宿舎として利用することになるので、相応の規模だったことが分かる。慶長四年(1599)三月の時点で三成が大坂にいたのは、公式発表の3月3日以前、おそらく2月20日を過ぎたころ、利家が死去していたからではなかったか、という想像を可能にする。

 ――加賀大納言ご逝去。

 の急使を受けて、桃山から大坂まで11里(40km)、船で淀川を下ったのに違いない。ということは家康も同じ情報を得ていたはずである。

 家康は

 ――わしはここを動くわけには参らぬ。

 と即断した。

 ――太閤殿下をたれがお護りするのか。

 秀吉の遺骸はまだ桃山城内にあって、昼夜を問わず読経と焼香が続けられている。桃山の執政代表として三成が急行したのも至極真っ当な判断だった。

 ただ、子飼い7将に

 ――三成は大坂にいる。

 と告げた者がある。それを指示したのは本多弥八郎(正信)であったか服部半蔵(正成)であったか。

 ともあれ大坂の騒動は三成の蟄居でひと段落した。

 高台院を介して子飼い七将を手懐け、豊臣家中の亀裂を顕在化させたあと、徳川方が照準を絞ったのは前田利長浅野長政である。

 利長は利家の嫡男でこの年38歳。利家没後、大老の職を引き継いだ。武功もあり人望も高い。有力大名の次世代を担うエースと目されていたが、慶長4年の8月、大阪を離れて金沢に退去していた。その年の閏6月、諸大名に出した家康名の帰国勧告に従ったかたちだった。

 長政は豊臣の一門で知略に長け、甲府の城を抑えている。甲州往還の要所であって、徳川の軍兵が上方に進むには長政を排除しなければならない。

 家康は「増田、長塚両奉行の要請」に応じて9月7日に大坂に入り、三の丸旧石田屋敷(現大阪市大手前2丁目付近)に宿泊、9月9日、秀頼に重陽節句の祝いを述べるため登城した。その折、長政が忍びを配して家康を亡きものにしようと企んだ、という。

 むろん証拠はない。

 長政は10月2日、

 ――疑いを晴らす言動は、さらにあらぬ嫌疑を招く。

 と判断して謹慎を申し出た。

 家康はそれを可として長政を武蔵国府中に押し込め、連座した大野治長を下総の結城秀康預かり、土方雄久を水戸の佐竹義宣預かりに処した。

 次いで家康は前田家に恫喝をかけ、利家の正室で利長の生母である芳春院を人質に取ることに成功した。NHKの大河ドラマ利家とまつ』(2002年)でいう「まつ」その人である。

 ――秀頼さまをお護りする。

 を口実に、徳川の手勢が大阪城に入った。すでに家康は西の丸に居を移していて、秀頼の名で大名の加増改易は自在である。見方によっては、この時点で政権は徳川に移っていた。

 ――徳川どのが天下人になられた。

 上方の民がそのように口にしている、と洛中の公卿が書き残している。民衆は実態をよく見抜いていたというべきであろう。それはさしたる時をおかず、土呂の念誓の耳にも届けられた。

 ――さようか。

 とは言うものの、大きな歎息がついて出る。

 ――お屋形さま(家康)が天下人……。

 東海三国の旧徳川家中にとっても関八州の徳川家中にとっても、なにごともなし、の日々が続いている。喜ぶべきことではあろうけれど、歓喜の声をあげようにもあげようがない。雲の上とはこのことにほかならない。

 念誓が願うのは、やはり合戦である。合戦で相手を打ちのめしての天下取りこそ、徳川の天下であろう。そのうえで、徳川の故地である岡崎を居城とし、かつて源武衛(頼朝)がそうしたように武家の都を定める。さればこそ土呂が東海の堺となって、大いに栄えるというものではないか。

 しかし事態は念誓が期待したようには動かない。

 足利の歴代に続いて織田右府、豊太閤が洛中に屋形を構え、その近郊に居城を築いたように、お屋形さまもまた、京二条に殿主を備えた新城を計画していると言う。

  かくして慶長四年が暮れ、慶長五年が明けた。

 念誓は

 ――お屋形さまは必ずや……

 を口にしない。

  どことなし背中が丸み、血色が薄くなったようにも見える。数え67歳は現今に直せば80歳を優に超える。年齢からすれば自然当然だが、そうなればそうなったでおかかさま(後妻のおこう)や手代頭の槇六郎左衛門は心配する。

 ただ、数え6歳の嫡男清三郎(前年、数え5歳で清三から改名:右馬允家嫡男の幼名を襲名した)、やっと置髪(3歳)になった娘・多阿と接する時間が増えた。おこうにとって、それは嬉しいことではある。

 

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