38.江戸参集は7月2日のこと

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手輿:『法然上人絵伝』から

 天正18年(1590)から慶長6年(1601)までの足掛け12年、それまでの歴史上、もちろん日本に限ってだが、家康は最も長い距離を移動した人物ではなかったか。

 主な移動を拾うと次のようになる。

 天正18年(1590)駿府→伏見

           伏見→駿府→小田原

           小田原→江戸

           江戸→宇都宮→江戸

           江戸→京都→伏見

 天正19年(1591)伏見→江戸→大崎

           大崎→江戸→伏見 

           伏見→肥前名護屋

 天正20年(文禄元年:1592)不明

 文禄2年(1593)名護屋→京都

   3年(1594)京都→江戸

   4年(1595)江戸→桃山

 慶長元年(1596)京都→名護屋

   2年(1597)不明

   3年(1598)名護屋→伏見

   4年(1599)伏見→大坂

   5年(1600)大坂→伏見→江戸

           江戸→小山

           小山→江戸

           江戸→関ヶ原

           関ヶ原→京都

 慶長6年(1601)大坂→伏見→京都

           京都→江戸

 天正18年の長駆は、小田原城北条氏を滅ぼしたのち奥州仕置を施していた秀吉を追いかけて宇都宮に出向いたときのことである。翌年は大崎(宮城県)まで出張って豊臣秀次の奥州一揆鎮圧に加勢、江戸に落ち着く暇もなく伏見に召喚された。以後しばらくは朝鮮戦役の指揮所となった肥前名古屋で秀吉の代将を務め、慶長3年、秀吉の訃報を聞いて伏見に帰還している。

 つまるところ、家康は文禄4年7月の秀次事変に際して秀吉の命で上洛して以後、慶長5年の上杉景勝攻略作戦(いわゆる会津征伐)まで、江戸に戻っていない。この間、江戸城の主だったのは3男の秀忠だった。ちなみに家康が帰還したときの居場所は本丸でなく西之丸であって、そこは「隠居曲輪」と称されていた。

 関八州の運営は、おのずから秀忠の幕僚が所管した。すなわち酒井忠世土井利勝、大久保忠隣らに委ねられた。徳川に限らず、諸大名はすべからく親と子がそれぞれの幕僚に支えられていた。それが家督争いの原因となった。

 そこで関ヶ原合戦で勝利したあと、家康は主だった家臣に

 ――徳川の後継はたれがよいか。

 と下問している。

 結果として秀忠が推挙されるのだが、現実に江戸城本丸に座している以上、家康の答えは示されていた。結城秀康を推す家臣団を公開の場で納得させたと言っていい。

 家康は天正18年に48歳、慶長6年は59歳である。移動は屋形付きの手輿や馬、休み休みであったにせよ、老体には応えたに違いない。ことに慶長5年の会津征伐と関ヶ原合戦にあっては、死に物狂いであったろう。

 ともあれ、文禄4年の7月から、慶長5年の6月まで丸6年、遠州中泉の御殿は使われず、東海三国の旧徳川家中は家康と面会する機会を持つことがなかった。

 そこに――というのは念誓がすっかり意気消沈していた慶長5年6月の初旬、

 ――徳川内府さま、下向あられるに付き、村々の者、ご奉公いたすべし。

 の前触れがあった。会津征伐のために、ひとまず江戸に向かうという。

 ――おおッ

 念誓が小躍りどころか狂喜乱舞したことは言うまでもない。

 それ、銭函を用意せよ、それを荷車に乗せよ、落ちぬようにしっかい縛り付けよ。やれ甲冑を出せ、鉢金も忘るるな、綻びがあらば繕え。お味方する岡崎衆に声をかけよ、飯は、水は、松明は……。おおそうであった、中泉の御殿はいかがであるか、長澤の陣屋に人を出せと騒々しい。

 ――落ち着きなさいませ。下向あそばすのは10日も先でありましょう。

 おこうは笑う。

 ――お頭が往還に人を出しておりまする。先駆けあらば、ただちに知らせがあるでありましょう。

 槇六郎左衛門がしかるべく手配している、だから安心せよ、と供回の熊田新五郎は言う。18になった新五郎は逞しい大人顔になっていて、いまや念誓の護衛と補佐の役といっていい。

 ところがおこうが言う10日を過ぎても行列は姿を現さない。大名の行軍は歌舞伎もの(華美な見世物)でもあったから、道者、行者の口伝えがあってしかるべきである。その音信もない。

 それもそのはずで、近習した松平家忠の手控えによると、江戸下向の触れを発したのは6月2日だったが、本隊が伏見城を出立したのは18日だった。念誓らが東海道をじりじりと注視していたとき、家康はまだ上方にいたわけだった。

 このとき徳川陣営は、石田三成に挙兵させるべく、ゆるゆると行動した、と伝えられる。実際。家康は伏見城に7日間も留まっていた。

 諸将に通知した江戸城下への参集期日は7月の2日、締め切りは7日である。のち、江戸中期の旅人が江戸の日本橋から京の三条大橋まで要した日数は、13日から15日だったという。18日が伏見出立のギリギリだったことになる。

 秀頼の命による軍事行動なので、往還の諸城はすべて城門を開き、事実上の天下人となった家康を饗応する構えを見せていた。それを丁重に、

 ――役務ゆえご遠慮申し上げる。

 と断り断りして、家康の本隊は進んだに違いない。いかに多くの兵を率いていても、城内で酒を盛られたうえ、刺客に囲まれたら命はいくらあっても足りぬ。

 念誓のもとに

 ――お屋形さま、鈴鹿にご到着。

 の知らせが入ったのは6月20日の夜更けだった。ということは、岡崎城下を通るのは21日か22日であろう。

 

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