39.1万2千余石の代官のこと(第1部了)

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東海道 今回の主要地点

 京から江戸に向かうには、近江の草津と伊勢の鈴鹿を結ぶ土山越えで伊勢湾に臨み、舟で常滑か熱田に渡る。しかし草津は三成の佐和山城と指呼の間にあり、水口城の長塚正家が控えている。正家は五奉行の一で中間派だが、秀頼一辺倒という点で三成に通じている。

 記録によると、家康は6月18日に伏見城を発し、5日後の23日に浜松で宿営した。

 ただその間の旅程が定かでない。

 推測と想像を重ねるなら、家康は草津、水口を避けて甲賀越えの道を行き、鈴鹿に出たのではなかったか。

 それはそれとして、21日熱田、22日岡崎であると辻褄が合うし、この史譚にとっても都合がいい。家康は安祥松平家松平宗家)の菩提寺である大樹寺を経て岡崎に入り、念誓ら旧徳川家中と面談したのち田中吉政の饗応を受けた、とせよ。

 新暦に直すと7月末の暑い盛りである。

 念誓は首から大珠の珠数をかけ、薄墨の道服ながら下に右馬允家の家紋「三つ扇」を染め抜いた行衣を着込み、家康より拝領した貞宗脇差という山法師さながらである。それは念誓なりに精一杯の「正装」だった。

 高齢な山法師は羽織袴の幼い男児の手を引き、土呂三八市の評定衆、出店衆ら100余人を引き連れ、ばかりでなく雌伏十年の思いで蓄えた貫銭を荷車に山と積んで、家康本陣の幕前に立った。銭の高はおよそ5万貫、すなわち五万石相当である。

 ここで係の吏僚に名を告げ、吏僚が名と貢物などを記録して「拝謁」は終わる。あとでそれを近習が家康に披露し、目立った者には家康花押入りの感状なり黒印状が発給される。

 このとき念誓が思ってもいなかったのは、

 ――おじどの。

 の声がかかったことだった。見ればそこに甥の清四郎(重忠)が立っていた。念誓の長男清蔵(親重)の3つ下だから、額に皺が刻まれ、鬢に白いものが目につくのは止むを得ない。

 ――なにをしておる。ここはお屋形さまのご本陣ぞ。

 ――なんと、おじどのはいつまでも子ども扱いであることよ。清四郎はご本陣衛士の奉行を仕っており申す。

 清四郎の父清三郎(親成)は、念誓が岡崎を出奔したとき右馬允家の家督を預かり、後見した。次いで嫡男清四郎をして、江戸の分家を立てさせた。俸禄300貫の旗本馬廻り衆であれば、清四郎が奉行であって不思議はない。

 いやはやここで会おうとは思いもせなんだ、清三郎どのはお元気か、これが初の見参、本年6歳になる土呂松平家の嫡男清三である、いや「蔵」の字ではない「三」を当てるのだ云々、陣幕の外の物音を聞きつけて、顔を出したのが本多弥八郎(正信)だったので、

 ――あいや、弥八どのではないか。なつかしや。

 ――おお、念誓どのか。ジジイになったの。

 たちまちこんにちの同郷会、同窓会のような賑やかさが発生した。

 弥八郎は三河一向一揆のとき激しく口論した仇友で、念誓と同じく越前で願人になったこともある。また、肩衝茶入「初花」のことでは家康に取り次いでくれた恩人でもある。

 ――ささ、これへ参れ。お屋形さまもお喜びであろう。

 ――されば、お邪魔仕る。

 三八市の評定衆や出店衆は、自分らの頭目が本当に家康に拝謁できる間柄であることに目を回した。それは岡崎城田中吉政の家中も同様であったに違いない。

 ところがさすがの念誓が平伏することが起こった。

 それは家康が

 ――よき子じゃ。

 と清三を抱き上げて膝に乗せ、

 ――徳川に尽くせよ。 

 と呟いたことだった。

 家康はどういうわけか長澤松平家を格別に扱った。家康の祖父清康の娘(叔母)碓井姫を母とし、父広忠の娘(妹)矢田姫を後妻とした松平康忠実弟のごとく思っていたのであろう。その子康直が文禄2年(1593)に没すると家康の7男松千代が養子となり、松千代が慶長4年(1599)に没すると8男辰千代(のち越後高田城52万石の松平忠輝)に家督を継がせた。

 長澤家の分家である右馬允家についても、念誓の実兄甚右衛門正次が病弱で家名が断絶するのを惜しみ、天正15年(1587)、家康は大河内秀綱に命じてその2男長四郎を継子とした。

 正次は徳川家の関八州転出に帯同し、相模国玉縄城下の代官を務めた。城主本多弥八郎(正信)から植木・岡本の2村を預けられたかたちだった。文禄3年(1594)3月、植木村の屋敷で亡くなり、庶子の正吉があとを継いだ。

 養子となった長四郎改め正久(のち正綱と改名)は、文禄元年(1592)、小姓として家康に近習し、同5年(1596)、相模国淘綾(ゆるぎ)郡万田郷(平塚市)に380石を与えられた。

 慶長5年の現在、家譜のうえで念誓は家康の8男辰千代の親族に相当した。

 ――徳川に尽くせよ。

 この一言が清三の一生を変えた。

 以後を簡単に記しておくと、石田三成は果たして蹶起して7月18日に伏見城を囲み、8月1日に陥落せしめた。このとき守将鳥居元忠内藤家長らとともに、土呂の茶園で念誓と協働した上林政重(茶道の師名「竹庵」)が51歳で、家康に近侍していわゆる『家忠日記』を残した松平家忠義が46歳で、討ち死にしている。

 下野小山でその知らせを受けた家康は会津攻めから反転し、美濃の関ヶ原で決戦に勝利した。念誓にあってそれは別の世界の出来事なので、詳細は省く。 

 関ヶ原合戦のあと念誓は家康から三たび代官に任じられ、土呂郷、長澤郷の25村1万2千余石を差配した。と同時に「高齢であるゆえ」を以って、親重・親朝の父子に補佐が命じられた。これにより右馬允家は土呂松平家となった。

 慶長8年(1603)2月、家康は伏見城において、征夷大将軍・右大臣・源氏長者・淳和奨学両院別当に叙任され、ここに徳川氏の幕府が開かれた。念誓はそれに満足したように、翌年8月、夏風邪をこじらせて死んだ。71歳だった。葬られたのは岡崎妙心寺(現圓福寺;岡崎市岩津)とされる。

 

                 第1部 了

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