40.関ヶ原合戦のあとのこと

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関ヶ原合戦図屏風:関ケ原町歴史民俗資料館

 関ヶ原合戦のあとのことに触れておきたい。

 教科書日本史では

 ――関ヶ原の合戦で西軍が負けて、石田三成は三条河原で処刑されました。

 ないし、

 ――徳川家康が天下を握り、豊臣家は一大名の地位に陥落しました。

 で終わる。

 合戦前220万石だった豊臣家の直轄地は65万石に削減され、毛利、島津、織田、佐竹といった味方陣営も処分を受けた。だが土呂の松平家からすれば、そう簡単な話ではない。筆者にあっては確認の意味でも、まず東海三国についてである。

 東海三国で最大の知行高を誇っていたのは、駿府中村一氏だった。

 中村氏は東軍に属したものの、戦端が開かれる2か月ほど前の7月17日に、当主の一氏が病死した。このため、関ヶ原には後を継いだ11歳の嫡男一忠が形ばかりの大将となって出陣し、一氏の妹を妻に迎えていた家老横田村詮が指揮を取った。

 中村家については、岡崎で念誓ら徳川恩顧の旧臣らと会った3日後(6月24日)、家康が駿府に宿営した際、村詮の屋敷で会談が持たれていた。

 ——主人一氏の病状は重く、余命いくばくかである。されど当家は徳川どのにお味方する。ついては……

 それまで仮想敵と黙していた大将にそこまで打ち明けたのは、

 ——石田三成ごときに振り回されてお家を潰してなるものか。

 の思いがよほど強かったからに違いない。

 村詮がその際の約定を果たしたので、家康は一忠の家督相続を許し、11月、駿府から米子城17万5千石に移封する決定を下した。

 代わって駿府城に入ったのは内藤信成だった。

 家康の父広忠が侍女に産ませ、内藤清長が養子として育てたという曰くがある。韮山城1万石から駿府城4万石は知行高が4倍になったわけだが、中村一氏の20万石と比べると駿府城のウエイトが軽くなった。

 駿河の東端にあった興国寺城は、中村一氏の家臣河毛重次が在番していた。関ヶ原のあと、三河三奉行の一である天野康景が1万石で入った。その南に位置する三枚橋城(沼津城)は、中村一栄から大久保忠佐に交代し、2万石を知行した。

 それまでは東海道の宿場でしかなかった藤枝には、酒井忠利が1万石で封じられ、天文6年(1537)に今川氏が築いた田中陣屋を居城に改修した。元和2年(1616)の1月、家康がここで茶屋四郎次郎に供されて食べた鯛の天ぷらが死因になった、という伝説がある。

 掛川城山内一豊は浦戸城(桂浜浦戸山)に移封されたが、5万9千石から土佐一国9万8千石(のち高知城20万石)へ、なので昇格である。交代で入ったのは久松松平定勝だったが、知行高は1万石に減っている。

 浜松城の横尾忠氏は出雲富田城24万石として転出した。それまでの知行高は12万石だったから倍増の昇格である。城主はしばらく空席だったが、翌慶長6年(1601)の2月、櫻井松平忠頼が美濃金山城2万5五千石から倍増の5万石で入った。

 三河の吉田城15万2千石の池田輝政は姫路城に移封され、播磨1国52万石を知行した。そのあとに入ったのは竹谷松平家松平家清で、知行高は3万石である。

 岡崎城田中吉政は、石田三成を捕縛することに成功した。そのことで、5万7千4百石から筑後柳川城に移封された。知行高は筑後1国32万石なので、大躍進である。代わって入城したのは徳川譜代の本多康重で、知行高は5万石だった。

 関ヶ原合戦で東軍に与した豊臣譜代の家臣は、恩賞として知行高が加増され、西軍に与して改易された大名の所領が与えられた。そのあとに入ったのは徳川譜代の家臣で、個々に見ればいずれも知行高は加増だった。しかし全体を総じると、徳川譜代大名に割り当てられた知行高は、それまでより30万石近く減少している。

 それがどこに吸収(配分)されたかといえば、まず松平一門の諸家にである。例えば田村甚介が木綿を栽培している大草郷の村々は、関ヶ原のあと深溝、形原、長澤の松平3家が差配するところとなっている。松平諸家はこれにより数百石から数千石の知行取りとなった。

 残りは徳川家(松平宗家)の所領ということになった。いや、順序は逆で、先に徳川家の所領が定まり、その残りが松平諸家に分配されたのかもしれない。ややのちの記録だが、東海筋20万石が徳川家直轄地となり、譜代大名の預けもしくは代官の差配するところとなった。

 関ヶ原合戦の翌月、つまり慶長5年(1600)10月、念誓は家康から土呂郷と長澤郷の代官に任じられている。当初の差配石高は額田郡の樫山村、鳥川村など6村1024石だったが、ときをおかず赤坂村や長澤村など都合25村1万2千余石に膨れ上がった。

 念誓にとっては3度目の代官職ではあるものの、徳川家の旗本でも士分でもない者が任じられたのは例がない。強いて言えば旧室町の習わしを適用したかたちになる。それにしても知行高が1万石を超える大名級ということは、異例であることに変わりはない。

 第1部の最終晩に書いたことだが、家康(ないし本多弥八郎)は

 ――高齢である。

 という理由で長男の清蔵親重・親朝父子を江戸から三河に戻し、念誓を補佐させている。併せて、赤坂(豊川市赤坂町)に出張陣屋を設けた。土呂の陣屋から差配する25村の東端までは約5里と遠い。寄騎と手代を常駐させよ、というわけだった。これにより、親重・親朝父子が念誓の名のもとで地域を差配する体制が整った。

 

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