41.伏見と駿府の幕府のこと

f:id:itkisyakai:20210811151421p:plain

安土桃山様式の装飾垂木:静岡浅間神社

 前回に続いてで恐縮だが、教科書日本史は、慶長8年(1603)の2月に徳川家康征夷大将軍に任じられたことを以って

 ――江戸に幕府が開かれました。

 と書く。

 日本史の時代区分は、世相状況を表す「戦国」時代を別として、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と政治権力の所在地名を使っている。厳密にその基準を適用するのなら、「江戸幕府」の始まりは元和2年(1616)4月以後となる。

 それというのは、会津征伐・関ヶ原合戦(慶長5年:1600)のあと、慶長12年(1607)まで、家康は10月ごろ江戸に帰り、翌年2月ごろ上方(主に伏見城)に戻ることを繰り返していた。江戸城で徳川家中のことを差配し、伏見城で天下のことを取り仕切った。

 関八州への転出、江戸城への移動は必ずしも秀吉の命に従っただけではなかったにせよ、家康は本心では駿府を本拠にしたかったのに違いない。今川の質としてであれ、幼少期から少年期を過ごした場所であって、かつ東海道の要衝である。

 会津征伐に向かうべく家康が岡崎に立ち寄ったとき、念誓はおそらく

 ――岡崎にこそ。

 と請い願ったに違いない。だが家康にとって岡崎は、松平宗家の故地であれこそ、居城にする意思はなかったらしい。

 ともあれそのようなことだったから、慶長12年(1607)7月までは安土桃山時代の延長線上、慶長12年から元和2年(1616)4月、家康が75歳で没するまでの九年間は、天下の権が駿府にあったという意味で、「駿府幕府」「駿府時代」といっていい。

 おさらいの意味で書いておくと、「幕府」とは野外に設営された軍の本営を指す。見晴らしのいい丘の上に幔幕を張り、その内で宿営し作戦を練り軍令を発した。華夏の古代にあって、「府」とは行政機関の総称であったので、王に代わって軍令を発する将軍の本営のみが「幕府」と称された。

 そこで――。

 信長や秀吉が目指した「天下人」と、家康における征夷大将軍の叙任は何が違うか、である。秀吉がこの世を去った慶長3年(1598)に、家康が堺の商人や洛中の公家たちから「天下人」と称されていたことはすでに書いた。ただしそれは、「京を中心とする畿内を差配する者」の意味だった可能性がある。

 関ヶ原合戦のあと、大坂城豊臣秀頼の地位は65万石の一大名に落ちたとはいえ、主筋と仰ぐ大名は少なくなかった。それが征夷大将軍に任じられたことによって、王に代わって令する権が付与された。すなわち旧の足利、織田、豊臣の家中であっても将軍の麾下にあって、令に服さなければならないという形式が発生した。

 もう一つ、「江戸幕府」とは「江戸に置かれた」の意味であって、その名が定着するのは、二代将軍秀忠が数年に一度しか上洛しなくなった元和以後である。さらにいえば我われが理解している「江戸幕府」が成立するのは、老中の職制がおおむね定まった寛永11年(1634)以後といっていい。

 徳川将軍家世襲した幕府を「徳川幕府」と称するなら、初期の徳川幕府には「家康の」の形容詞が付く。家康がいるところに幕府があった。だけでなく、家康が将軍の位を秀忠に譲った慶長10年(1605)4月以後ないし、秀忠が新将軍として江戸に帰還した同年5月以後、2つの幕府が並立したのに等しい。

 家康は徳川家が直轄する400万石のうち、かつて所領とした東海甲信6国の160五万石余を差配し、独自の家臣団を保有した。独自の家臣団とはすなわち、関ヶ原合戦における桃配山本陣7万5千余の軍勢ということになる。

 大名であろうと旗本であろうと、将軍と主従の関係を結ぶ必要があった。一段高いところに座る将軍対して、下座で平伏する。それが家臣として将軍に忠誠を誓う儀式であって、「御目見得」と呼ばれた。封建・世襲の時代でも、雇用関係を確定する手続きが必須とされたのは面白い。

 念誓が身分は百姓であるにもかかわらず、1万2千余石の郷村を差配する徳川家の代官となったのは、関ヶ原合戦の直前に岡崎で面談したのを、家康の幕僚が御目見得と認定したのである。

 家康の幕府を仕切ったのは、本多正信酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政といった宿老だが、本多正信を除くと相次いで隠居したり死没している。代わって台頭したのは家康の近習衆で、その筆頭は慶長8年の時点で28歳の松平正綱だった。秀忠陣営の筆頭で「実家康君之御子也」の噂が絶えない土井利勝利31歳と暗黙裡にライバルの関係にあった。

 これまでに何度か触れたように、正綱は世襲代官大河内秀綱の2男で、天正15年(1587)、12歳のとき、家康の命を受けて右馬允家の長男正次(念誓の兄)の養子となった。最初「正久」と称し、関ヶ原合戦には義父正次とともに家康本陣の旗本馬廻り衆に列している。

 武闘派の武将というより、知略と算術を以って家康に仕えた官僚であって、のちに駿府城駿府幕府)の勘定方となった。家康の葬儀を取り仕切ったあと、江戸幕府の勘定方筆頭となり、松平宗家菩提寺である大樹寺岡崎城下鴨田)の増改築、日光東照宮の造営、日光杉並木の植樹などに手腕を発揮している。

 家康に右馬允家の正綱が近習していたと知れば、念誓の没後も右馬允家の一族が異例の扱いを受けた事由が理解される。

 

【補追】家康宿老の没年は次のようである。

  ・酒井忠次:慶長元年(1596)10月/70歳

  ・井伊直政:慶長7年(1602)2月/42歳

  ・榊原康政:慶長11年(1606)5月/59歳

  ・本多忠勝:慶長15年(1610)10月/63歳

  ・本多正信:元和2年(1616)6月/79歳

アクセスカウンター