43.代官の子は代官のこと

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松平忠輝像:貞松院(長野県諏訪市

 土呂陣屋を預かっていた念誓の長男清蔵(親重)は、実父の死を境に通り名を「清左衛門」に改めた。「清左衛門」は念誓も出家する直前、岡崎三郎(信康)の宿老に加えられたときに名乗っていたことがある。右馬允家当主の意識を形にして周囲に示したわけだった。

 ところが8年後の慶長17年(1612)、清左衛門は徳川家を致仕し、嫡男七郎兵衛(親朝)も旗本の身分を捨てる決意を固めた。その事由は明確でない。物語を盛り上げるなら、家康が駿府に隠居してから江戸在城の2代将軍秀忠との雲行きが怪しくなった。それが遠因とできないこともない。

 どういうことかというと、家康は慶長12年(1607)に次男結城秀康、4男松平忠吉が不審死を遂げたことで、秀忠に猜疑の目を向けた。そこで秀忠の歳の離れた弟たちに大禄を与え、それによって関八州を包囲する構えを構築した。

 すなわち

 ・慶長14年:10男長福丸(徳川頼宣)に駿河遠江二国50万石

        11男鶴千代丸(徳川頼房)に常陸25万石

 ・慶長15年:8男辰千代(松平忠輝)に越後高田45万石

 である。

 それより前、慶長7年に9男五郎太丸(徳川義直)に尾張62万石を与えている。長福丸以下の兄弟4人を合わせると182万石(忠輝の知行高は75万石とする説もあるので最大212万石)に達する。連携すれば、関八州250万石に対抗できるし、秀忠の配下にも家康に呼応する武将がいる。

 秀忠が、

 ――わしを排除しようとしているのではないか。

 と不愉快になっていた(かもしれない)のは当然だろう。

 ――ああいやじゃいやじゃ。茶と木綿を商うほうが気楽じゃわい。

 と清左衛門は考え、「高齢であり病弱でもあり」を理由にした――というのは、ややこじつけに過ぎる。

 本当のところを言えば、額田屋に何か異変が生じたのではないか。

 一つ考えられるのは、おかかさま(おこう)の健康状態だが、まだ40前であるし、元気いっぱいで店の者に指示を与え、書役を従えて蔵から蔵へ歩き回り、荷役や伝馬のことに忙しくしていたと思いたい。男勝り、女ながら、というような言葉が使われるのは後世のことであって、安土桃山、文禄慶長のころ、女性は甲冑を身につけて戦場にも出たし、商いもした。

 ここまで触れてこなかったが、おこうは慶長3年(1598)のこと、念誓との間にもう一人、女児おたあ(於多阿)を成している。慶長17年のいま、おたあは15歳の娘盛りで、岡崎城下板屋町の佐口市郎左衛門(久喜)の長男三十郎との婚姻が決まっていた。おこうの健康状態が芳しくなかったとは考えにくい。

 むしろ可能性が高いのは、大草の田村甚介の健康状態であろう。

 甚介は63歳になっていたから、何があってもおかしくはない。仮に甚介が病没したとして、田村家の木綿事業を額田屋が引き継いだか共同運営するようになったことは十分に考えられる。実際、土呂松平家寛永のころ(1624~1645)、地域での通称が松平甚介家と変わり、広大な農地を保有していたことが知られている。

 これより前、慶長13年(1608)の端午節供に、清三郎が数え14歳で元服していた。名乗りは市右衛門、諱は冠親を務めた叔父の親成から一字をもらって「親正」と定まった。とはいえ慶長17年の現在、市右衛門やっと数えで18歳である。代官を務めるには知識も経験も足りず、手下を指揮する能力もない。

 そこで叔父の親成が暫定の代官となり、しかるのち親成の長男重忠が正式な代官として赴任してきた。

 重忠は関ヶ原合戦のとき家康の警護を指揮する奉行であり、現在は大番組頭に準じる地位にあった。そのために右から左に異動することが叶わなかった。これで右馬允家は念誓、親重、親成、重忠と4代12年にわたって代官を務めたので、三河代官といえば右馬允家というような立ち位置が固まった。

 家康は松平一門のなかで、ことさら長澤松平家に重きを置いた。そのことはこれまでに何度か触れた。家康の叔母碓井姫の息子(家康にとっては従兄弟)で、妹矢田姫の嫁ぎ先が長澤家第8代の康忠だった。安祥家を頂点とする松平氏は「十八松平」と称されるほど大きな氏族だったが、一枚岩ではなかった。家康にとっては、血縁の濃さが信頼のカギだったのかもしれない。

 その長澤本家の血脈が絶えそうになったので、家康は7男松千代を養子に入れて家督を継ぎ、松千代が夭逝すると8男の辰千代を入れた。辰千代は慶長3年(1598)7歳にして伊達政宗の娘五郎八姫を妻とする約定を結び、慶長7年(1602)12月、下総国佐倉5万石に封じられ、元服して上総介忠輝を名乗った。

 それからわずか3か月後の慶長8年(1603)2月、今度は信濃国川中島12万石に加増され、待城の城主となっている。待城とは、のちの松代城である。

 家康の忠輝贔屓は止まらない。

 慶長10年(1605)4月には宮中に参内して従四位下右近衛権少将に任じられ、5月に大坂城豊臣秀頼と面談した。慶長15年(1610)には越後高田城30万石を加増され、川中島領と合わせて45万石の太守となったことはすでに書いた。

 忠輝の長澤本家入りの前、長澤家分家である右馬允家にも家康は介入した。天正15年(1587)右馬允家2代甚右衛門親常の長男正次が病弱だったので、大河内秀綱に命じて次男長四郎を養子として入れている。

 長四郎は元服して諱を正久とし、のち正綱と改めた。文禄元年(1596)に家康の近習となり、慶長12年(1607)駿府幕府の勘定方となって財政を司った。大名家の勘定方とは、すなわち年貢の徴収であり、その運送と売買および、予算執行の計画と管理である。

 右馬允家に縁深い人間が家康の近習として扈従し、かつ代官の人事を掌握していたことは、念誓亡きあとの右馬允家、土呂松平家に有利に働いた。ただ市右衛門にとって「代官の子は代官」という既定事実がいいことだったかどうか。

 そんなおり、

 ――そんなの、わしゃイヤじゃ。

 と言い放ったのは、松平正綱の甥、大河内久綱の長男である。通り名が正綱と同じ長四郎というので、話がややこしい。

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