44.市右衛門と長四郎のこと

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日光の杉並木:travel.jp

 所伝によると、大河内金兵衛(久綱)の長男長四郎が

 ――代官ではいやじゃ。

 と言ったのは慶長6年(1601)のことだったという。

 室町に幕府があったころ、大河内の家は三河吉良氏の被官で、そもそもは遠江国曳馬荘(浜松市)の代官だった。永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発し、主筋の吉良義昭はその勢いに乗って家康と決戦した。義昭は敗退し、大河内家は徳川家に仕えることになった。

 徳川家に仕えた大河内金兵衛(秀綱)は武蔵国高麗郡に710石を知行するとともに伊奈忠次の配下で代官を務めた。その長男が大河内金兵衛(久綱)、次男が松平正綱である。

 ただし長四郎はこのとき数え6歳だった。幼い児童がそのようなことを自分の意思として口にするとは思われない。まして、6歳の少年が叔父(金兵衛の弟)松平正綱のもとに出向いて、

 ――わが名では御上の近習は叶い難し。養子にもなれば御座近く御奉公できるやもしれず。

 と申し出たというのは伝説の域を出ない。

 大河内家は代官の家なので、自分も将来は代官になるっきゃない。しかし叔父さんの養子になって松平の名を得ることができたら、「御上」の近習として扈従できるかもしれないじゃないか、という。

 だが、右馬允家も代官の家なので、これは後付けの動機ということになる。金兵衛はわが息子を家康の側近に送り込みたかったのであろう。

 さて、松平正綱は家康の近習として扈従していて、住まいは伏見にあった。一方、大河内家は小室(埼玉県北足立郡伊奈町)の伊奈屋敷の内に居住していたと考えられている。これでは金兵衛が正綱に長四郎を目合せる機会がない。

 接点は慶長6年の暮、家康が行った鷹狩りにあったらしい。鷹狩りの場所が武蔵川越周辺で、そこは関東代官伊奈熊蔵(忠次)の統括の下、大河内金兵衛が代官として差配していた。そのおり、金兵衛が長四郎のことを弟に頼んだのに違いない。

 ――しかし兄者、長四郎は嫡男ではないか。

 ――なに、男児はまた産まれる。

 金兵衛は32歳の男盛りだったから、それくらいのことは言ったかもしれない。だが結局、金兵衛は新しい子を成すことができなかった。ずっとのち、娘(長四郎の姉)が酒井親炮に嫁いで成した外孫の久親を養子として家督をつなぐことになる。

 家康の許しがあって大河内長四郎は晴れて松平正綱の養子となった。

 ――このとき、通り名を三十郎と改めた。

 ことになっているのだが、正綱と同じ幼少期の通り名であることが気にかかる。養子になって三十郎から長四郎に改めた、と考えたほうがいい。正綱は慶長8年(1603)に通り名を長四郎から右衛門佐と改めているので、おそらくそのとき養子に長四郎の名を譲ったのに違いない。

 慶長6年に数え6歳ということは、文禄5年/慶長元年の生まれである。松平市右衛門(幼名清三)より1つ年下で、しかも正綱を介して右馬允家の眷属ということになる。住まいは長四郎が武蔵国小室、市右衛門は三河国土呂と異なるので、幼少期、少年期に面会することがあったとは思われない。強いて言えるのは、慶長8年(1603)の11月、長四郎が正綱に帯同して伏見に出向いたとき、遠江今泉、三河長澤の陣屋ないし岡崎城下で会っているかもしれないということだ。

 正綱が従五位下右衛門佐に叙任された翌年(念誓が71歳で没した年でもある)、慶長9年(1604)の7月17日、江戸城西の丸で将軍秀忠の次男竹千代が誕生した。次男というのは、秀忠の長男長丸は生後10か月で夭逝していることによる。母は織田信長の妹お市方と浅井長政の間に生まれた3女お江(小督)である。

 余談だが、お江の「江」は近江か江戸を意味していて、実名ではない。小督がお江の音を写したものか、宮中の女房を意味する「督」の意味か、議論は定まっていない。「達子」(さとこ/みちこ)が実名ではなかったかとされる。

 また竹千代は祖父家康の幼名であって、のち第三代将軍家光となる。これに伴い斎藤利三の娘お福(後の春日局)が乳母となり、松平長四郎(九歳)、岡部七之助(同)、稲葉千熊(八歳)、永井熊之助(七歳)、水野清吉郎(四歳)の5人が小姓として召し出された。

 5人について、それぞれの「その後」を記すと次のようになる。

 岡部七之助は諱「永綱」、元和8年(1622)に早逝した。

 稲葉千熊は乳母お福の息子で諱は「正勝」といった。書院番頭を経て老中となり従五位下丹後守・小田原城8万5千石を領した。

 永井熊之助は諱を「直貞」といい、小姓組番頭・豊前守となり4300石を領した。

 水野清吉郎は諱を「光綱」といい、御小姓組番頭を経て御書院番頭となった。

 松平長四郎はというと、諱は「信綱」といい、のち3代将軍家光の懐刀、知恵袋となって老中首座を務め、川越城6万石を知行した。

 いうまでもなく「知恵伊豆」の異名を取った松平伊豆守信綱その人である。

 寛永(1624~1645)から万治(1658~1661)にかけて、島原の乱を鎮圧し、幕府官僚機構を整備するなど、天下のことを差配した。

 むろんこの時点では、当人もそのことを知らない。

 慶長9年に話を戻すと、長四郎は竹千代付きの小姓として、月3口の俸禄を得ることとなった。徳川家の俸禄制では、1日当たり5合の玄米を「1口」といい、1人扶持といった。3口なので3人扶持、年12か月で5石4斗である。次いで翌年には2口が加増されている。9歳ながら御家人並みの俸禄ということになる。

 竹千代付きの小姓であるから、住まいは江戸城西の丸である。雨風の心配はなく、食うもの、身にまとうものを案じる必要はない。小姓、傅役といいながら、実際は世話係であり遊び相手であり教育係でもあったので、当代一流の学問を受け、武術を習得する機会もあった。かつ諸大名との人脈が育まれた。

 以後、長四郎改め信綱は出世の階段を駆け上がっていく。

 片や土呂では、数え11歳の清三郎が砂塵にまみれて三八市の路地を走り回り、土呂陣屋の修練場で木刀を振っている。

 当人も周囲の者も

 ――代官の家の子は代官。

 ということを疑わない。

 いや、慶長9年、10年のことであれば、おかかさまは夫を失ったショックから立ち直って、清三郎に額田屋の身代を手渡すべく、朝早くから晩遅くまで立ち働いていた。今ふうにいえば、ジャンプ台の高さが違ったのだが、それにしてもその格差は現代とは比較にならない。

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