45.長澤松平家の騒動のこと

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皆川広照の墓:栃木市金剛寺(「武将の銅像と墓参り」から)

 松平清三郎は数え14歳の慶長13年(1608)に元服し、通り名を市右衛門と改め、諱は「親正」と定まった。一方の長四郎が元服したのは16歳の慶長16年(1611)で、このときの諱は「正永」だった。「信綱」と改めるのは元和6年(1620)である。

 慶長15年(1610)の10月、駿府城で火災があった。このとき正綱は手の者を警護に就かせ、次に足軽を指揮して納戸の木綿晒を縛り合わせ、これを石垣に垂らして人々を避難せしめた。これにより正綱は三河国幡豆(はず)郡3千石を加増された。

 原因は南蛮渡りの莨(煙草)の不始末とされたが、その3年前には完成直前の天守閣が焼失し、前年6月にも火を出していた。

 ――忍の仕業ではないか。

 下手人が江戸秀忠陣営か大坂の豊臣方かは定かでない。いずれにせよ混乱に乗じて家康を亡きものにせんとした企みは、正綱の機転で潰えたことになる。3千石の加増はその恩賞にほかならない。

 それに前後して、長四郎の実父大河内金兵衛(久綱)が駿府城に来た。久綱は家康と改めて主従の関係を結び、この年の関東の田畑収穫について報告したという。久綱は二年後にも駿府に赴き、同様の報告を家康に届けている。

 慶長17年(1612)に土呂の清左衛門親重・七郎兵衞親朝が徳川家の致仕したことはすでに書いた。これに伴って市右衛門が右馬允家を相続し、清左衛門を襲名した。長四郎正永はこの年、江戸の大身旗本井上半九郎(正就)の長女との婚姻が整った。祝言は翌年1月だった。

 近習筆頭人として駿府幕府を差配した正綱は、実兄久綱を駿府陣営に取り込み、秀忠陣営の井上正就と縁を結ぶことで江戸を牽制したわけだった。『御実紀』(徳川実紀)、『駿府記』といった公式な記録に残っているくらいだから、正綱はそのような工作を他にも多く仕組んでいたに違いない。

 さて、右馬允家の本家である長澤松平家に入った家康八男松平忠輝について、である。慶長17年の時点で21歳ながら、従四位下右近衞権少将、越後福島城45万石(一説に75万石)の太守であって、土呂の清左衛門からすればはるかに遠い位置にいる。

 これより前、忠輝が信濃国川中島十二万石の主だった慶長14年(1609)のこと、家中で騒動が発生した。下総国佐倉五万石から倍以上に知行高が増加したことで、新参家臣と古参家臣の間で軋轢が激しくなった。

 新参家臣の筆頭格である家老花井三九郎(吉成)の専横を、古参家臣団が家康に訴えたのである。その筆頭格は、忠輝の養父で信濃国飯山城7万5千石の皆川又三郎(広照)で、これに長澤本家筋の松平庄右衛門(清直)、その姉婿の山田重辰らが加わった。

 元和偃武のあとであれば、躊躇なく大名家そのものが改易されるところだが、家康はそうしなかった。花井派が反訴し、さらに忠輝本人が弁明の使者を駿府に送ったのが面白い。家康はいちどは皆川派の言い分を認めたようだが、花井吉成の義母で忠輝の生母である茶阿局(さあのつぼね:実名はおひさ)の取りなしで判断が逆転した。

 皆川広照は

 ――家老の任に適わず。

 として改易され、京の智積院に蟄居して老圃斎と号した。のち家光の御伽衆として元和9年(1623)常陸国新治郡1万石が与えられた。また松平清直は降格減俸、山田重辰は切腹処分となって騒動は決着した。

 のちの所伝によると、家康は忠輝を”鬼っ子”として嫌ったとされる。その代表は元禄15年(1702)に新井白石が著した『藩翰譜』である。そこには7歳の忠輝を引見したあと、家康が

 「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」

 と言った、とある。

 文中「三郎」は家康の嫡男で、信長から謀反の猜疑を受けて自刃に追い込まれた松平信康を指す。信康自刃が念誓の岡崎出奔の原因だが、家康が「徳川」の名乗りを認めたかどうか議論はあるにせよ、信康を嫌っていたことを示す証拠はない。

 忠輝に信康の面影を見た家康は、信長に負けて嫡男を自刃に追い込んでしまった強烈な負い目にさいなまされた。それが「恐ろしき面魂かな」の真意であろう。逆に家康は忠輝に大きな期待を抱いていて、ひょっとすると末子相続のことを考えていたのではなかったか。

 実際、慶長17年9月、家康は江戸に出向いていた忠輝を駿府に招いて面会した。

 ――忠輝と暫く会っていない。

 というのが理由だった。

 その直後、能見松平家四代当主で駿府城大番頭(城代)だった松平重勝に越後三条2万石を与え、忠輝の附家老として送り込んだ。降格減俸処分となっていた松平清直を5千石で家老に復したことと合わせ、花井派に対する抑止策を強化したかたちだった。

 翌年の4月にも、家康は忠輝を駿府に招いて面談した。この時期、松平正綱は実兄の大河内久綱を呼び寄せて農産物の実りの様子を家康に報告させ、長四郎正永の舅井上正就通じて江戸城中の様子を探るなど、秀忠陣営を牽制している。家康の忠輝招待は、当然ながらそのような政略的意味を持っていたはずである。

 忠輝に対する期待が大きかったからこそ、家康は忠輝に越後福島城45万石(あるいは75万石)を与え、東北諸大名に高田城の普請を命じた。忠輝を中核に、伊達政宗佐竹義宣最上義光上杉景勝、蒲生忠郷、相馬利胤らが連合する絵を描いていたのではあるまいか。

 さらに小説を書くつもりで想像を逞しくすれば、日の本を東西に割って、西を大坂の豊臣秀頼に、東を忠輝に統治させることを夢想していたかもしれない。そのような仮説は面白いのだが、家康にあって竹千代に将軍の位を渡す意思が揺らいだとは思われない。

 となると、東西分割統治構想は仮説のままバインダーに収めておくほかにない。9男徳川義直尾張62万石、10男徳川頼宣の駿遠50万石、11男徳川頼房常陸25万石、そして8男松平忠輝の越後45万石(75万石)は、日の本を徳川と松平で覆い尽くし、その世を永劫に続ける。そのために秀忠の独裁を牽制する策だった可能性が高い。

 家康がいつごろ豊臣家討滅を本気で考え始めたかというと、しばしば慶長19年(1614)4月に発生した方広寺梵鐘銘文事件があげられる。「国家安康」の語句が

 「御名(家康)ノ二字ノ間ニ、安ノ字ヲ被入候事、第一悪候事カト存候事」

 というのは言いがかりにほかならない。

 そこで注目されるのは、慶長18年、松平正綱が正妻を離縁したことである。

 正綱の正妻は、大坂方の武将木村長門守重成の妹婿山口左馬助(弘定)の娘だった。おそらくそれは、家康が大坂討滅を決意したことを受けたものであったろう。

 戦国の非情譚といえばそれきりだが、のちに正綱が呼び戻し、再婚しているのが救いではある。

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