大坂城の豊臣家が滅びたのは、慶長20年(1615)の5月8日である。グレゴリオ暦に直すと6月4日に当たる。
このとき市右衛門は天王寺の家康本陣にいた。わずか21歳、駿府城勤番の旗本に加えられて半年を過ぎたばかりの新参だが、松平一門の筆頭格長澤家の一員である。
系譜上の従兄弟に当たる松平右衛門佐(正綱)が
――かの念誓どのの……
と口を利くだけで話が通じた。額田屋の財力があれば、市右衛門を邪険にして得なことはあまりない。とはいえ武士の世界は初めてだし、ましていきなり合戦に臨むとあって、市右衛門は自分が何をどうやったものか、まるっきり覚えていない。
救いだったのは、額田屋の手代のうち、戦場を駆けた経験を持つ川井惣五郎と守役の山岡久兵衛が老齢ながら市右衛門を助けてくれたことだった。また、上方の情勢は額田屋に出入りする道人行者から聞いていたし、折々に届く洛中当道座屋敷からの書簡からもうかがうことができたので、心の準備はできた。
――たれにも初陣がござる。
久しぶりの軍ごとに惣五郎が浮き立って言った。
惣五郎、久兵衛が子息と眷属を連れ立ち、姉の次男(市右衛門にとっては甥)三浦七右衛門が加わった。1日100文で雇った近在農家の2男3男に槍と陣笠を持たせると、にわか作りながら30人ほどの揃えができた。
市右衛門は馬上である。
右馬允の隊は駿府近習頭正綱に属し、家康本陣の後備えについた。
岡崎から行軍する道々、聞こえてくるのは
――なに、大坂方はどれほどのこともない。
――彼我の差は歴然ではないか。
――数日もかかるまい。
という声ばかりで、弛れた空気に満ちていた。立ったままでは疲れるので、草の上に座って合戦の物音を聞くしかやることがない。目付けが回ってくるときだけ起き上がる、という具合だった。
異変は5月7日(グレゴリオ暦6月3日)の午過ぎに出来した。
陣の前方がなにやら動き始めた。といっても本陣は五列編成で総勢5万の大軍である。何が起こっているか、最後尾の市右衛門は知りようがない。勝手に物見を出すのは軍律に反するので、じっとしているしかないのだが、右馬允家の隊はもともと戦うことを目的に来ていない。
――いざとなれば逃げよ。命あってのことぞ。
市右衛門は言ってきた。自分もそのようにするつもりである。
実際、右馬允の隊はそのようにした。
閧の声に怒号が重なり、それに土を蹴る騎馬、甲冑、鉄砲、剣戟、弓の弦、法螺、太鼓、何かが倒れ割れる……の音が急に大きくなり、陣幕が吹き飛んだ。
――ワッ
と本陣全体が揺れ、もうあとのことは分からない。
――わ~ッ
喚きながら市右衛門は走った。
何千という軍兵がてんでんに難波の原を走り、雨を含んだ土に塗れ、あるいは草に足を取られて転んでいた。何が何だか分からない。現代の知識でいえば、群集心理というものである。皆が走るから走るのであって、なぜ走るのかはどうでもいい。
家康の本陣を総崩れにしたのは、真田の赤備えだった。
真田信繁の戦いは凄まじかった。
諸々の戦記や屏風絵を総合すると、真田の赤備えは300騎ほどでしかなかったが、キリのように松平忠直率いる1万5千の越前勢を突破し、酒井忠世、脇坂安元の第2列を蹴散らし、家康の本営に2度までも突撃した。家康の本陣は前衛3、中衛2、本営、後衛2の計8列、およそ5万の兵で構成されていたが、真田隊の勢いに圧倒されて前衛が潰れ、本営もまた総崩れとなって後退を強いられた。
信繁はこのときのために、「宿許筒」(しゅくしゃづつ)と呼ばれる短筒を用意していたといわれる。火縄銃を改良したもので、馬上で扱えるよう銃身を短くし、かつ8連射できるようになっていた。
戦闘が鎮まったのち紀伊の徳川頼宣が鹵獲し、幕末まで家宝として保管していた。明治のころ民間に払い下げられ、それが第二次大戦後、駐留した米軍人の手に渡った。鉄砲研究家・澤田平氏が米国オレゴン州まで出向いて買い戻した、というエピソードがある。
同年6月11日付で島津忠恒が国許に送った手紙が、『薩藩旧記雑録』に収められている。すなわち、
「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候」
とある。
文字通りではないにしても、都合10km以上、家康は逃げに逃げた。
家康をそこまで追い詰めた真田信繁は、3度目の突撃を行うべく寄騎を集め、傷の手当を兼ねて休息していたとき、越前松平忠直の家来で西尾仁左衛門という武士に討ち取られた。
細川忠興は
「首は越前殿鉄砲頭取申し候、手負て、草臥れして居られ候を取り、手柄にも成らず候」
と書いている。
真田信繁が討ち取られたのは生國魂神社と勝鬘院(いずれも大阪市天王寺区)の間の高台と推定される。これにより西尾仁左衛門は家康、秀忠から褒美を、主君忠直から刀を授けられ、併せて俸禄が1800石に加増された。
大坂城の豊臣家が滅びたのは、前述したように翌5月8日である。
豊臣方の組織的な抵抗は、前日午後3時ごろまで行われた天王寺口の戦いを最後に熄んでいた。それを受けて、豊臣方の主将大野治長は家康と秀忠に向けて、秀頼と淀殿の助命を嘆願する使者を出した。8日の正午ごろ、山里曲輪の蔵を囲んだ井伊直孝の手勢が鉄砲を撃ちかけたのは、
――降伏は許さぬ。
つまり
――自刃せよ
ということにほかならない。
鉄砲の音が合図になった。自刃したのは秀頼、淀殿、大野治長など33人とされるが、正確なところは分かっていない。蔵に仕掛けてあった火薬が爆発したうえ、天守や月見楼、御殿のすべてが炎上した。
――朱に染まる大坂の空が洛中からも見えた。
と伝えられる。曇り空の日だったに違いない。
【補追】山里曲輪とは大坂城独特の施設ではない。本丸の隣接し、池や木立、せせらぎの合間に茶室や四阿をあつらえた一画をそのように呼ぶ。茶の湯と天守城郭を結びつけたのが秀吉であれば、大坂城が最初かもしれない。