47.二条城での対面のこと

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炎上する大坂城

 これから先の話に通底することを書いておきたい。第1部から数えて47回目になってやっと、というのは遅きに失する感がないでもない。それはその通りだが、改むるに憚ることなかれ、である。

 洛中から赤く輝く空が望まれるほど大坂城が激しく炎上し、紅蓮の炎と硝煙の中で秀頼以下33人が自刃した。また秀頼の男児で8歳だった国松丸は事前に城を抜け出していたが、京極家の傅役田中六郎左衛門とともに洛中で捕縛され、落城から15日後、京・六条河原で斬首された。

 ただ薩摩に落ち延びたとする言い伝えもある。指名写真があったわけではないし、指紋やDNAで本人を確認したわけでもないので、六条河原で斬首されたのは身代わりであったかもしれない。徳川陣営にとってはそれは大きな問題ではなかった。

 男子の血統を断つのが戦国の習いであれば、已むを得ない処分であったろう。また「豊臣」「羽柴」を名乗っていた諸氏が一斉に名乗りを改めたのも、本家宗家が消滅したことによる。このうち木下姓を憚って「空」を名乗った一族もあったという。50音順で「く」は「き」の下だから、木下=空というのは謎解きのトンチめいている。

 余談だが、筆者は日本語の伝統的な音順はイロハであって、50音順は明治以後の教科書国語が始まりだと思っていた。なるほど第1列に「あ・い・う・え・お」の母音5音を置くのは科学的に見える。

 ところが白河天皇の承暦3年(1079)、奈良の西大寺で著された経典の釈『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)に50音図の原型が記載されているという。木下の姓を「空」に変えたというのは、まんざら作り話でもないように思われる。

 秀吉は道人行者の出自で若いころは天涯孤独であったし、サザエさん状態で婿入りした木下家も親族が少なかった。加えて秀吉は位人臣を極めて以後、自身の手で親族眷属を粛清していた。

 関ヶ原合戦の勝利で家康は「天下人」と目されたし、250万石と65万石の歴然たる差をもってすれば一気に大坂城を揉みつぶすことも可能だった(かもしれない)。しかし事実として、将軍府(幕府)を立ててから10年以上も豊臣家は温存された。

 すなわち家康は、豊臣家が続くことを忌避しなかったことになる。

 では、なぜ一転して豊臣家を滅ぼすことを決意したのか。

 これは長く、日本史における「素朴な疑問」の一つとして掲げられ、答えが模索されてきたらしく、

  ・幕府が提示(命令)した転封を拒否した。

  ・豊臣家が蓄えていた金銀がほしかった。

  ・秀頼が思いのほか逞しく、かつ賢かった。

   対して2代将軍秀忠の大軍指揮能力が凡庸だった。

   このため豊臣恩顧の大名に秀頼待望の空気が高まった。

  といった理由が挙げられている。

 大坂城から出て他の地に移動することを拒否したのは、慶長19年の冬の陣のあとのことである。併せて徳川陣営が提示していた講和条件

 ――淀殿を質として江戸に住まわせよ

 も、大坂が拒否するこのは織り込み済みだった。その時点で大坂城の濠は埋め立てられていたし、徳川陣営は豊臣家排除を決意していた。従ってこれは家康(ないし徳川陣営)が一転した理由にはならない。

 「豊臣家の黄金」説はどうだろうか。

 落城の前、秀頼は蓄えてあった黄金を割竹に流し込み、城から逃げ出る近習の者に分け与えた。それでもなお、落城後に徳川方が没収した金は2万8千余枚(12万3千両強相当)、銀は3万4千枚に上ったとされる。

 この時代の金銀「1枚」は約165g前後なので、金の総量は4.6t、銀は3.9tと算出される。金10匁(37.5g)が1両なので4.6tは12万3467両、国内での商取引に用いられた金と銀の換算比率は銀60に対して金43なので銀3.9tは7万5860両となる。

 なるほどたいへんな量だが、家康が貯め込んだ金銀はそれをはるかに上回る。

 のちの話だが、3代将軍家光は日光東照宮の大規模改築に56万8千両と銀100貫を投じた。また3度に及ぶ上洛で100万両以上を費やし、同じ年に銀5千貫目(12万枚)を江戸市中の町方に配っている。家光1代で500万両以上を散財したが、4代将軍家綱に600万両を残している。

 大阪城の20万両など目ではない。

 となると、残るのは3番目の「秀頼非凡/秀忠凡庸」説である。

 秀頼は背丈が190cmもあった、と伝えられる。母の淀殿も168cmで、当時の女性の平均147cmと比べ「大女」だった。対して秀忠は、岡崎市大樹寺に残る歴代将軍の等身大位牌によると160cmで、男性の平均155cmの中では大柄だが、秀頼と並んだら圧倒される。しかも母に似て、なかなかの男前だったらしい。

 加えて秀吉子飼いの福島正則加藤清正池田輝政細川忠興浅野幸長加藤嘉明黒田長政が大軍の将たるべき振る舞いや、戦況を俯瞰する観察眼を教育し、石田三成小西行長増田長盛、長塚正家、大谷吉継といった文治派官僚が政権を支えている。

 ただ、これまでに何度か書いてきたように、家康は徳川の家中が秀忠を見限ることがあったとしても、徳川の世が続くように体制を整えていた。2男秀康に68万石、8男忠輝に47万石(一説に75万石)、9男義直に50万石、10男頼宣に50万石、11男頼房に25万石である。ポスト秀忠は嫡孫竹千代(家光)、それを忠輝か義直が補佐する構想ではなかったか。

 これものちのことだが、家光が臨終に際して異母弟の保科正之を「大政治参与」に任じ、4代将軍家綱を補佐させたことを思い出す。将軍位を継いだとき家綱は10歳であって、慶安・承応・明暦の治世は保科正之松平信綱の2人が担っていた。そのような手法は、すでにして家康が徳川政権に埋め込んでいたと言っていい。

 徳川政権が言いがかりをつけてまで豊臣排除に動くきっかけとなったのは、慶長16年(1611)3月、二条城における家康と秀頼の面会であったろう。そのときまで、嫡男の嫁(秀忠正妻お江)の甥、孫姫(秀忠の長女千姫)の婿であれば豊臣の家を残したい、と思っていたことはほぼ間違いなかろう。 

 

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