48.吉利支丹と国富流出のこと

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後藤分銅:江戸時代に両替商が用いた(Wikipediaから)

 大阪落城、豊臣家滅亡を確認した家康は、松平忠明大阪城代に任じて京の二条城に入った。忠明は前年の講和に基づいて大坂城の濠を埋め立てる作業を指揮した立役者である。その働きがなければ、豊臣家は容易には滅びなかったであろう。

 公卿衆や寺社方ばかりでなく、国許に帰還する諸大名が挨拶に立ち寄る。加えて進物の列が引きもきらない。堀川筋は連日ごった返した。市右衛門は松平正綱麾下の組頭として、御門の警固に当たることになった。

 この当時、二条城には洛中を睥睨する天守が聳えていた。その最上階の座敷で家康は対応し、その間に秀頼の長男国松丸を市中引き回しのうえ三条河原で斬首に、秀頼の一女七歳を千姫預けとしたほか、豊国社を廃絶することなど、大坂戦役の事後を処断した。

 また一国一城の定め、武家諸法度、禁中並公家所法度、諸宗諸本山法度を発令し、朝廷に対して禁中並公家所法度に基づいて改元を願い出た。候補として「天保」「元和」の2案が示されたが、事務方から宮中に家康の「元和」案が伝えられていたというエピソードがある。

 京を発ったのは秋風が立つ8月である。ということは、市右衛門が土呂に帰着するまで、数日の猶予がある。そこで、慶長16年(1611)3月の二条城に場面を移すことにする。家康の口から秀頼に、吉利支丹と国富流出の関係についてのことが語られた場面である。

 要点は南蛮人との取引がどのような方法で決済されたかである。 

 文禄・慶長のころ、当邦における金銀交換比率は金1対銀12だった。物々交換では客観的な価値の交換ができないので、貴金属を量目で計って対価とする。

 南蛮人が船底に積んできた砂糖を示して

 ——1袋当て金1両である。

 と言ったとする。

 金1両は江戸時代の小判のことではない。量目にして10匁、すなわち37.5グラムをいう。金1両は銀12両(450グラム)、銅銭1000枚(3.73キログラム)に相当する

 これに対して、華夏においては金1は銀6で取引きされた。

 南蛮の商人は明では銀で仕入れ、日本では金で売った。船を往復させるだけで倍の利益が出た。当邦の目で見れば、貿易で入ってくる物の価値の倍の国富が流出したことになる。

 ——その元凶は吉利支丹にある。

 秀吉は天正15年(1587)6月19日付で発した覚書でキリスト教の布教を禁止した。しかし南蛮貿易は秀吉に富をもたらすものであったので、

 「佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事」

 と容認した。

 徳川政権もこの姿勢を貫いていた。だが、慶長15年(1610)以後、頻発するようになった南蛮貿易における贈収賄や朱印状偽造(密貿易)が転機となった。キリシタン大名が南蛮の宣教師、商人とつるみ、目に余る暴利を貪り当邦の富を流出させていたわけだった。

 慶長17年(1612)3月21日、幕府はついにキリスト教禁止令を幕領に発し、次いで翌18年(1613)12月22日、「伴天連追放之文」を交付した。家康も寵愛の侍女ジュリアおたあを伊豆大島へ配流している。堪忍袋が切れた、ということであろう。

 家康はそのことを豊臣陣営にも理解させたかったに違いない。その理屈を明晰な秀頼は理解したかもしれないが、しかし情が認めなかったのではないか。

 家康の下問に秀頼が

 ――富を献じるのは、デウスへのご奉公ではありませぬか。

 と言ったかどうか。

 信長の安土城下にイエズス会セミナリオがあったのを真似て、秀吉は伏見城下にも大阪城下にも吉利支丹の集会所(教会)を作っていた。大阪城下の教会は淀川を望む谷町台地上にあって、広さは百畳敷きだったという。

 むろん秀頼が吉利支丹だった確証はない。だが豊臣陣営における武闘派の武将は、その家中までが吉利支丹だった。鉄砲や織物、薬剤の技術が目的で便宜的にセミナリヨで洗礼を受けた者もいただろうし、本心から改宗・入信した者もいた。 

 家中に信者が多く大きな力を持っていれば、主はそれを否定するわけにはいかない。まして利益がもたらされるとなれば、自ら信徒ではないにしても、諸大名にあってはキリスト教を保護することになる。その頂点に立つ豊臣家も同じような事情にあった。

 そのような視点で眺めると、真田信繁があれほど執拗に家康本陣を追い詰め追撃し得たのは、赤備え軍団に少なからぬ吉利支丹がいたからではないか、と思えてくる。家康は自分たちの信仰に弾圧をかけ、デウスやマリアを汚そうと目論んでいる邪教頭目である。それを討ち取らんとした執念ではなかったか。

 一方、家康には三河一向一揆という苦い体験がある。永禄6年から同7年(1563~64)にかけて、三河を2分した徳川・松平家中の内乱であって、それは浄土宗と一向宗宗教戦争という意味合いを帯びていた。

 家康にとっては拭いがたいトラウマである。イエズス会の教えは農民、商人、公家、武家の身分を問わず、姿もなく音もなく染み込んで行く。

 イエズス会の教えは

 ――鵺のような……

 と見えていた。家康が脅威と認識したのは豊臣家ではない。

 

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