49.宗教戦争第2幕のこと

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フランシスコ・ザビエルの肖像;神戸市立美術館(重要文化財

 安土桃山、伏見・駿河幕府のころの吉利支丹はどれほどの力を持っていたか、われわれはあまり知らない。教科書日本史は鉄砲伝来、南蛮貿易イエズス会、吉利支丹弾圧、鎖国・出島という筋立てで語るばかりで、社会的・政治的勢力としてとらえることをしていない。

 まず支配層における吉利支丹はどうだったか。

 広く知られるところでは、秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛孝高がいる。洗礼名を「シメオン」といい、円形に「IOSUI SIMEON」(ジョスイ シメオン:当時のポルトガル語ではIとJが混用)の文字を配置し中央に十字をあしらった印章を用いていた。秀吉子飼い七将に数えられた嫡男黒田長政も「ダミアン」という洗礼名を持っていた。一族の黒田直之は熱心な吉利支丹で「ミゲル」と称された。

 五大老の筆頭格前田利家は「オーギュスチン」という洗礼名を持っていたと伝えられる。その娘で宇喜多秀家に嫁いだ豪姫も吉利支丹、宇喜多秀家も吉利支丹だった。生母(利家の正妻)まつも入信していたと見て差し支えない。

 豊臣一門では高台院(於寧)の甥木下勝俊(ペテロ)がいる。淀殿の妹お初が嫁いだ京極高次京極高知の兄弟は洗礼名こそ持っていないが吉利支丹だった。 二人の生母は洗礼名「マリア」を本名として使っていた。

 秀吉・秀頼幕下の武将では、堺の商人でもあった小西行長(アウグスティノ) 、高山右近(ドン・ジュスト)以下、蒲生氏郷(レオン)、筒井定次織田秀信(ペトロ)、織田秀忠(パウロ)、内藤忠俊ジョアン)、細川興元田中吉政(バルトロメオ)、前田秀以(パウロ)、前田茂勝(コンスタンチノ)、明石景盛(全登:ジュスト)などがいる。

 さらに言うと、冬の陣、夏の陣で陸続と大坂城に参集した牢人衆には吉利支丹が少なくなかった。後藤又兵衛(基次)は黒田家に出仕していたとき官兵衛の薫陶を受けて受洗していたし、塙団右衛門(直之)、薄田隼人正(兼相)、明石景盛(全登)、真田信繁といった牢人衆の多くが吉利支丹の人々に支えられていた。

 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが明の上川島を発って薩摩半島の坊津に上陸したのは天文18年(1549)の8月だった。以来約70年の間に、キリスト教は信長の庇護のもとで信者を増やし、九州から津軽地方にまで浸透した。

 ――デウスの下ではすべての人が平等である。

 という教えに、社会の下層に押し込められている人々が救いを見出し、そうした人々なしでは領地の経済、軍事を動かすことができない領主が、表向きであるか本心であるかは別としてイエズス会のパードレから教えを受けた。

 伏見・駿府幕府のころ、全国の吉利支丹は100万人を下らず、親派を含めると300万人はいたと見ていい。西暦1600年ごろ、北海道と沖縄諸島を除く日本列島に住んでいたのは1200万人~1700万人と推定され、その4割が城下町(都市)周辺に居住していたとすると、4人に1人は吉利支丹だった。

 家康にあって、吉利支丹は一向宗門徒衆と同じに見えたに違いない。

 過去においても日蓮や一遍など仏教系の教祖を排斥する動きはあった。しかしそれは、辻説法を禁止したり教祖や伝道師の行動を監視し制限する、せいぜいが石つぶてを投げ流罪にするといった攻撃であって、武器を向けることはしなかった。

 乱世になって様相が一変した。一向宗門徒衆が寺社領への守護使不入を盾に、自治を主張するようになった。留意すべきなのは、親鸞が唱えた「一向専念無量寿仏」から一向宗が生まれたのではない、ということだ。蓮如もまた「我らは一向宗ではない」と語っている。

 「一向宗」を称した門徒衆は、

 ――生はいっとき。この身は仮。本性は魂にあり造悪無碍である。

 と口々に言った。

 造悪無碍(ぞうあくむげ)は親鸞の「悪人正機」(悪人こそが阿弥陀仏が救済する本願である)を継承したものだが、「悪人」を曲解した。親鸞は「仏法の教えに従わず自制のないままに生き暮らす人々」を「悪人」と言った。ところが門徒衆は文字通り「悪行を犯す人」と解釈した。

 であるから

 ――悪行は往生浄土の妨げにはならない。

 ――真の信心を持つ者は悪行を恐れてはならない。

 ということになった。

 領主や雇い主に逆らうことは間違いではない。むしろ正しいことであって、それは阿弥陀さまも認めてくれることである。

 その一方、門徒衆は戦禍で家や田畑を失った流浪の人々、戦闘で傷ついたり生まれながらに身体の不具を負っている人々、癩や疱瘡など流行病にうめく人々に救済の手を差し伸べてもいた。

 門徒衆の外見は仏法でいう出家の体ではなかった。山伏、陰陽師、巫女、念仏僧、琵琶法師といった道人行者、旅の行商人など様ざまで、捉えどころがなかった。彼らにとって死は恐れるものではなかった。

 すなわち家康にとって豊臣家との戦いは、第2の一向一揆ないし新しい宗教戦争という意味が強かった。宗教戦争の第2幕である。

 家康には、燎原の火のごとく広がる前に、何が何でも鎮圧しなければならぬ、という決意があったのではないか。そのような仮説に立つと、吉利支丹を根絶やしにするまで苛烈に行われた理由が見えてくる。

 となると、8男松平忠輝が冬の陣への出陣をむずがり、夏の陣では故意に遅参した理由が解明できる。舅の伊達政宗、正妻の五郎八姫がともども吉利支丹であって、おそらく忠輝もいずれかの時点で入信していたのではないか。

 実際、道人行者たちは

 ――上総介さま(忠輝)が立てば、10万の吉利支丹が蜂起する。

 と噂しあった。

 しばらく会っていないのを理由に、2度にわたって家康が忠輝を駿府に招いたのは

 ――吉利支丹を捨てよ。

 と説得するのが目的で、ところがそれは家康の思うようには行かなかった。大坂の戦役のあと忠輝との面会を拒絶しているのはそのためであろう。

 

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