50.秀頼の落人伝説のこと

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真田の抜け穴:三光神社(大阪・玉造本町宰相山公園

 小田原城が降伏したとき、秀吉は家康以下の諸将を率いて城内に入って勝鬨をあげ、天守から城下を睥睨した。軍兵の解散と武装解除、事実上の当主北條氏政、全軍の指揮官氏照の自裁、城主氏直の退去というプロセスに加え、頭目の首実見と城の制圧、そのうえで勝閧をあげるのは勝利を確認する必須の手続きだった。

 山崎合戦のあと、明智光秀は捕縛され、三条河原で斬首された。関ヶ原のあと、石田三成も三条河原で斬首されている。公開で処刑し、その首を高札場所に掲げたのは、衆人に首実見させることで「吾に歯向かう者はこのように滅びた」と示す意味があった。

 これを以って

 ――日本人も首狩り族であった。

 とするのは、ある意味で正しい。

 山里曲輪の蔵に鉄砲を撃ちかけた井伊直孝の手勢は、火勢が鎮まるのを待って蔵の内を探索した。確認できたのは性別年齢も判断できない首のない焼死体と「吉光」銘の太刀だった。「吉光」とは粟田口藤四郎の銘であって、秀吉が好んで蒐集し、秀頼に相続されていた。

 その報告を受けて井伊直孝

 ――掘り起こせ。

 と命じた。足軽の少なからずは動員された農民なので、鋤や鍬、畚を扱うのは馴れたものだった。遺体が片付けられ、焼け落ちた瓦や土壁、木材は取り除かれ、焼土は3尺以上も深く掘り下げられた。しかし秀頼の首は発見できなかった。

 家康が大坂城本丸(厳密には本末の焼け跡)に入って勝鬨をあげたものの、秀頼の首実見はできなかった。明智光秀と同じように、家康はいまひとつ納得できていなかったに違いない。

  花のようなる秀頼様を

  鬼のようなる真田が連れて

  退きも退いたり加護島へ

 の通り、真田丸内に抜け穴があって、真田信繁に護られて落ち延びた、という言い伝えがある。いや、抜け穴は京橋口にもあって、待ち受けていた島津の船が秀頼を救助した、ともいう。なるほど千姫が無事に救出されたのはなぜか、と考えれば頭から否定はできない。

 一方、昭和55年(1980)の5月、学校の建て替え工事(工事前の発掘調査)で発見された「アサリの貝殻を敷き詰め、その上に草を置いて安置された、育ちのいい推定年齢20〜25歳前後の男性の頭蓋骨」が秀頼の首であれば、落人伝説は伝説に過ぎなくなる。真実は分からない、

 なにまれ豊臣家の滅亡を確認した家康は、松平忠明大阪城代に任じた。

 松平忠明は前年、大坂城の濠を埋め立てる作業を指揮した立役者である。その働きがなければ、豊臣家は容易に滅びなかったであろう。こののち忠明は大坂城内にあった商人町を復活させ、人と物資の流通を盛んにすべく運河を切り開いた。それは「道頓堀」の名でこんにちに伝わる。

 大坂をあとにした家康は本営5千の兵を2手に分け、うち3千は秀忠に従って桃山城に向かい、家康は2千の兵を従えて京の二条城に入った。これが駿府勤番の旗本部隊であって、すなわち真正の幕府軍といっていい。

 この当時、二条城には5層のきらびやかな天守が聳えていた。その二の丸の座敷で家康は対応し、その間に秀頼の長男国松丸を市中引き回しのうえ三条河原で斬首に、秀頼の一女7歳を千姫預けとしたほか、豊国社の廃絶など、事後のことを処断した。

 また一国一城の定め、武家諸法度、禁中並公家所法度、諸宗諸本山法度を発令し、朝廷に対し禁中並公家所法度に基づいて改元を願い出た。そもそも元号は天帝の司ることであって、その委任を受けた地皇の専横事項のはずだった。法度はそれに徳川将軍が関与できると定めていた。

 慶長に代わる元号の候補として「天保」「元和」の2案が示され、7月13日、新元号「元和」が定まった。二条城の事務方(松平正綱)から宮中に、家康が「元和」を望んでいることがひそかに伝えられていたというエピソードがある。

 家康が京を発ったのは秋風が立つ8月である。関白、太政大臣を輩出した豊臣家を滅ぼしたのだから、家康本人が宮中に出向いて報告すべきところ、そのようなことをした形跡がない。それを以って、家康は真田信繁の赤備えによって天王寺で殺害されていたとする見方がある。

 『徳川実紀』には、家康は翌9月29日に駿府から発ち江戸に向かっている。73歳、現今に置き換えれば85歳を超えた高齢にもかかわらず、家康は長旅をものともしていない。これも家康替え玉説の論拠の一つだが、右馬允家松平市右衛門のような末端の馬廻衆の預かり知るところではない。

 その市右衛門は洛中にあって、松平正綱麾下の組頭として、御門の警固に当たっていた。国許に帰還する諸大名が相次いで挨拶に立ち寄る。ばかりでなく、公卿衆や寺社方がやってくる。加えて進物の列が引きもきらない。堀川筋は連日ごった返した。

 合戦場で市右衛門は浮き足だったが、御門の警護では額田屋の仕事が大いに役に立った。つまり来訪者と主だった随行者の氏名を控え、誰がいつ、何人の連れで入城したか、手持ちの武具や備えはいかがであったか、その者どもはいつ城外に出て行ったかの管理である。

 記憶力がよく、漢字の読み書きができ、墨と筆と紙の扱いが分かっていて計算ができる(いわゆる読み書き算盤)能力は、この国にあっては江戸期の寺子屋が大きく貢献した。慶長のころ、武士階級においてもその能力は特異とすべきものだった。

 結果、市右衛門は二条城御門警護の役を賞されて奉行に任じられ、併せて大番組に列せられた。戦場では浮き足立って逃げるしか能がなかった若造が、読み書き算盤の能が認められて家康幕府の事務方に起用される。しかも大番組となれば、将来は二千石の大身旗本に昇進する可能性があるではないか。

 

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