51.真田の姫の乱妨取りのこと

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葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱:東慶寺(北鎌倉)蔵/重要文化財

 大坂落城の余話である。

  秀頼が自刃した5月8日の夕刻以後も、散発的な戦闘は続いていた。

 徳川方の記録は

 ――豊臣の残党

 というのだが、城主が自刃し多くの将が討ち死にしても、なおゲリラ戦が行われたという。徳川方の武将を討ち取ったところで、恩賞や加増は期待できない。にもかかわらず「残党」は戦いを続けた。それが何を意味しているかを考えると、思想的抵抗であるように思えてくる。

 繰り返しになるのだが、秀頼が吉利支丹だったことを裏付ける資料はない。ただ、大坂落城の折、城内から無事救出された千姫(秀頼の正室、秀忠とお江姫の長女)が一緒に連れ出した秀頼の長女茶阿姫(6歳)は、イエズス会のマークが入った蒔絵の筒箱を持っていた。

 その筒箱はカトリック教会などで聖餅式に用いるパン(聖体)をおさめる箱であって、茶阿姫が出家し、尼号「天秀」となった北鎌倉の東慶寺に寺宝として所蔵されている。「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」と名付けられたそれは、重要文化財という以上の意味を持っている。

 もう一つ、獅子奮迅の活躍を見せた牢人組の武将は、少なからず吉利支丹ないしその親派だった。例えば牢人五人組のうち、明石景盛(全登)は言うに及ばず、後藤又兵衛(基次)も敬虔な吉利支丹だった。もう一人は真田左衛門佐(信繁)である。イエズス会の記録(イエズス会日本記録集)に、「フランコ」ないし「フラコ」という洗礼名が記されている。

 イエズス会の記録だけなのだが、「だからこそ本当」という見立てもある。であるなら、雑兵を含め3千の真田軍が1万5千の松平忠直軍を蹴散らし、赤備え三百騎が一丸となってぎりぎりまで家康を追撃した要因が理解できる。

 だけでなく、最終戦の初日(5月6日)、なぜ真田軍は伊達軍に向かったのか、ということも分かってくる。総勢12万の徳川本隊と真正面からぶつかっても勝ち目はない。それより紀州街道を北上してくる徳川方3万5千の軍兵を撃破して、戦況の主導権を握ろうとしたわけだが、その主力が伊達政宗軍だったことが注目される。

 伊達政宗支倉常長イスパニア、ローマに派遣するほどイエズス会と親しく、領内に吉利支丹の集会所(教会)を7つも設置していた。政宗正室愛姫、その娘で松平忠輝正室となっている五郎八姫も吉利支丹だったとされる。吉利支丹のつながりから、伊達政宗を豊臣方に寝返らせる作戦であったかのしれない。

 実際、伊達軍の隊の先鋒を務めた片倉重長は、信繁の使者と面談している。どのような話し合いが行われたか、むろん伊達家は徳川家を憚って明らかにしていない。後日談として明らかにされたのは、信繁は大坂城内に残してきた子どもたちの面倒を、重長に託した、ということだけである。

 真田軍は片倉重長隊の前進を一時的に「抑え込んだ」ことになっている。ここがミソで、重長は使者の口上を政宗に伝え、判断を仰いだのであろう。政宗の返答が届くまで、重長は部隊を休止させた、というのが実際で、以後も戦っているフリを続けたのに違いない。

 片倉家は伊達政宗麾下にあって、白石城の城主だった。城代ではなく、伊達家の支藩のような扱いである。徳川将軍家からのイチャモンは伊達家が受け止めてくれる。信繁にはそのような深慮があったとも思えてくる。

 信繁が重長に依頼した向後の憂いは、3女の阿梅のことである。歳は16(17という説もある)で、片倉家の記録には、

 「城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり」

 「誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり」

 とある。

 白綾の鉢巻に白柄の長刀を脇にかかえ、妙齢の美女が重信の陣営にまかり通る。

 戦場を駆け抜けるマリアを彷彿させる描写である。

 落城のときの混乱に紛れて「乱妨取り」された、という話もある。勝利した軍兵のタガが外れ、乱暴狼藉どころか逃げ惑う人々(大坂城内には数万の町民がいた)を手当たり次第に斬り殺し刺し殺し弓で射殺し鉄砲で撃ち殺した。その首を狩って恩賞を求める愚行に及ぶ者までいた。

 年若い美形の姫が「乱妨取り」されたら、それがたまたま吉利支丹に理解がある伊達家の縁者だったというのは、おそらく幕府への言いつくろいであろう。事前に計画されていなければ、阿鼻叫喚の大混乱をくぐって脱出できるものではない。

 こののち、京にあった片倉家の屋敷に、信繁の4女あぐり、6女阿菖蒲、7女於かね、8女(実名未詳)、次男大八が送り届けられた。子女の脱出と保護を命じられた三井景国が縁のある西本願寺に匿い、その配下である我妻佐渡、西村孫之進という武士が警護していた、と伝えられる。

 阿梅は重信の侍女として仕え、その正室綾姫が寛永3年(1626)7月に江戸屋敷で死去したあと、滝川一積(滝川一益の孫、真田昌幸五女きく姫の夫、家康の旗本1千石)の養女として片倉重長の継室となった。天和元年(1681)12月、享年83で没した。

 4女「あぐり」も滝川一積の養女となり、三春城3万石の蒲生源左衛門(郷喜)に嫁いだ。6女「阿菖蒲」は伊達政宗正室愛姫の甥田村宗顕の嫡男田村定広(のち片倉家の名跡を継ぐ)に嫁いだ。7女「かね」は京の商人で、のち徳川家人として五百石を給された石川宗林に嫁いだ。明暦3年(1657)8月死去。8女は「青木次郎右衛門室」と伝わるが、詳細は分からない。9女は早世したとされる。

 信繁の次男大八は4歳になったばかりだった。

 公式な記録では京で印字打ち(石をぶつける刑)で死んだことになっていた。ところが寛永17年(1640)、ほとぼりが冷めるのを待っていたかのように伊達家が360石で召し抱え、「真田四郎兵衞守信」を名乗った。

 当然ながら、幕府から詰問があった。そのとき、伊達家は「旗本真田信尹の次男政信の子」と返答した。旗本真田家も口裏を合わせたので、お咎めなしとなったというエピソードがある。

 

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